〈政経〉政党解説 公明党

公民

 こんにちは。選挙に向けて、政党を端から解説しています。今回は公明党ですね。現在は連立政権の与党ですが、これまでどのような歴史を辿ってきたのか、解説したいと思います。

党史

前史

 元々は宗教団体の創価学会が政界進出を狙って文化部を作ったのが始まりでした。1955年の統一地方選挙で実際に政界進出を果たしました。そして、1956年に国政進出を果たし、衆議院に25議席を獲得しました。この時中心となったのが池田大作です。

 1963年以降は、自由民主党・日本社会党という2大政党に次ぐ第3党となりましたが、まあ議席数はたかが知れたものです。だって55年体制の真っ最中ですからね、自民党と社会党でほぼ独占ですよ。あと注意して欲しいですが、この時はまだ公明政治連盟という名前の団体です。1964年になって初めて、公明政治連盟が創価学会から切り離されて公明党となりました。これで公明党の正式な誕生となります。

発展

 公明党はその後、1967年には衆参両院で67議席を獲得し、いよいよ大きな政党になってきました。そしてこの年に委員長に就任したのが、竹入義勝です。彼が公明党を大きくしたと言っても過言ではないでしょう。

政教分離

 みなさん、この話を聞いて「あれ?」って思いませんでした。公明党は宗教団体を母体としています。まずいですよね。日本の原則は政教分離ですよ、ガッツリ宗教が公明党に絡んできてるわけです。「これいいの?」って思うかもしれませんが、もちろん”ちゃんと”問題になりました。

 1969年に創価学会を批判したとある本を出版中止とするように公明党が自民党の田中角栄幹事長に働きかけたことが暴露されました。あーあ、やっちゃった。出版の自由を侵そうとする行為ですよね。まあこういうことを防ぐために、政教分離を定められているわけですから、ガッツリアウトです。

 これで公明党は社会的に大批判を受け、ここぞとばかりに公明党の伸長をよく思わない野党が徹底的に国会で追及します。しかし佐藤栄作内閣は野党分断を狙ったようであまり公明党批判に協力しなかったのです。具体的には野党からの池田大作の証人喚問の要求を受け入れなかったりとかですね。これによって、自民党に貸しができてしまったわけですので、今後しばらく、公明党は自民党に対する閣外協力をせざるを得なくなりました。

 翌年には創価学会の池田大作が公式に謝罪し、今後創価学会は支持団体に徹することを宣言しました。これまでの公明党は、創価学会の意見をそのまま反映する政党でしたが、創価学会に支援される政党に切り替わりました。まあどこかの団体に支援されるくらいなら、どこの政党でもやってるんでね。創価学会と公明党を制度上分離したわけですから、このくらいなら許されるんでしょう。

 その後の選挙では、この言論出版妨害事件の影響で公明党のイメージダウンは避けられず、大敗に終わってしまいます。この後はやや迷走しますね。いろんな野党と手を組んだり、共産党と協定を結んだり(すぐ死文化するけど)、自民党から連立の呼びかけがあったりですね。もうね、いろんなところから引っ張りだこというか、んーまあ、行ったり来たりですかね。

与党入り

 1980年代からは、自民党に接近していきます。この時期って自民党への逆風がありそうでなかったということがありました。1980年の衆参同日選挙では議席数の大幅減が見込まれましたが、結果的に自民党が圧勝したんですね。これをもって公明党は、反自民の路線をやめて、自民党に接近して行きました。逆に社会党とは仲が悪くなっていきました。

 ところが1990年の衆議院総選挙では、自民党が安定多数、野党では社会党の1人勝ちという結果を生みました。これで野党内での協力は薄れていきます。だって圧倒的に強い野党がいるんだもん。

 一方の自民党は参議院では過半数を割っていました。自民の議席に公明の議席を足せば、過半数にいくんですよ。公明党は「反自民」っていうわけでもなくなったので、自民党の小沢一郎幹事長は公明党に徐々に接近していきます。この時公明党は、個別の法案の賛否をその都度判断するという方針にします。これわかります? 自民党だけでは成立させられない法案であっても、公明党を納得させれば可決できるようになったのです。公明党が議決を握ることになりました。これをキャスティング・ボートと言います。

 さらに1993年に、宮沢内閣の不信任案が可決されて自民党が分裂(小沢一郎などが造反)し、衆議院総選挙では半数を割り込むという事態が起こりました。社会党はというと、こちらもいろんな野党がいるなかに埋没してしまいました。自民党が第1党だけど過半数ではない。こんな状態が生まれました。ここで野党が動きます。自民党でも共産党でもない野党が首班指名選挙で協力し、連立政権を作りました。誕生したのは細川護煕内閣です。自民党は結党以来の政権与党の座を初めて失いました。続く羽田孜内閣も同様に連立政権です。

自公連立政権

 公明党はその後新進党(海部俊樹や小沢一郎のいる政党)に合流しましたが、自民党の先着によって1990年代後半には、旧公明党は徐々に新進党から離れていきます。1997年には、公明党と新進党は完全に分離し、その直後に新進党自体も分裂しました。

 新進党の多くの党派は、民主党に合流しました。公明党は民主党への合流には参加しません。んー、創価学会との相性があまり良くなかったのが原因ですかね。

 1998年には、再び参議院で自民党が半数を割ります。これで公明党が再びキャスティングボートをにぎりました。自民党や自由党小沢一郎)と連携し、小渕恵三内閣に参加しました。ただしのちに自由党が離脱していきます。

 2003年には自由党の一部が自民党に合流し、これ以降自公連立政権が続きました。一度中断したのは2009年です。麻生太郎内閣の下で衆議院総選挙が実施されましたが、自民党が大敗して民主党に政権を明け渡しました。ここで公明党の代表もかわり、新たに山口那津男が代表となりました。現在まで続けてますね。そして2012年には再び政権に返り咲き、以後は国土交通大臣ポストなどを公明党が請け負っていますね。

政策

 母体が創価学会であることは大事な要素です。憲法改正は、中途半端な立場です。自衛隊の明記とかは、無理してやらなくていいのではないかという立場です。後は中道政治。さらになんと言っても、福祉ですね。非常に福祉に力が入っています。お金の”ばら撒き”を提案することが多いです。昨年の一律10万円給付の際にも、公明党の意向が入ったという噂はよく聞きますね。今回の選挙でもばら撒き政策を提案しています。

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