〈日本史〉歴史人物解説 藤原頼通

日本史

藤原頼通

 藤原頼通は父の藤原道長と共に摂関政治の全盛期を作ったことで知られています。しかし裏を返せば、彼の時代で摂関政治は衰退の方向に進んでしまいました。どうしてこのような結果になったのか、詳しく見ていきましょう。

道長の時代

 父の藤原道長は、後一条・後朱雀・後冷泉天皇の3天皇の外祖父となりました。それに伴い、息子の藤原頼通も外戚として権力を持つようになります。

 1016年に後一条天皇が即位すると、道長は摂政になります。翌年、頼通は内大臣に就任すると同時に道長から摂政の地位を譲り受けました。1019年には関白に、1021年には左大臣となりました。藤原道長によって藤原氏が権力基盤を継いでいく方策は取られていた訳ですね。

頼通の時代

 1027年に藤原道長が亡くなり、これ以降が本格的な藤原頼通の時代になります。ところがこれ以降、かなり大変な時代でした。まず早々に平忠常の乱が起こり、これを鎮圧した3年間の間に房総地方はだいぶ荒れます。頼通の権力自体は高いですが、後継には大きな問題がありました。なんと、頼通には娘がいなかったのです。かろうじて養子をとって天皇家に嫁がせていますが、まあ養子だからね…

 1045年には後朱雀天皇が病気に倒れました。その際、後継候補には2人の親王が上がってきました。一人は尊仁親王、もう一人は親仁親王です。ところが、尊仁親王は藤原氏を外戚としていませんでした。そのため、頼通は親仁親王をゴリ押しします。こうして後冷泉天皇が誕生しました。頼通は藤原氏の権勢を維持するため、1036年に設けていた一人娘を後冷泉天皇に嫁がせましたが、残念ながら男の子は生まれませんでした。

 さらに1051年には前九年の役が起こり、ここでも世情不安が出てきます。末法思想も影響しており、頼通は1052年に平等院鳳凰堂を建立しました。

 1061年には太政大臣に就任しましたが、こちらは1年後に辞職しています。1067年には関白の職を弟の藤原教通に譲りました。1068年には後冷泉天皇が崩御し、藤原氏と関係の薄かった尊仁親王が後三条天皇として即位することになりました。これで頼通は宇治に帰ってしまいます。

摂関政治の衰退

 後三条天皇は藤原氏に気遣うことなく、堂々と政治をしていきます。代表例は延久の荘園整理令ですね。あれは貴族などに配慮をほとんどしない政策でした。

 頼通は、1072年には出家してしまい、1074年に亡くなりました。その後、弟の藤原教通も亡くなり、いよいよ摂関政治の時代から院政の時代に突入していくことになります。

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