〈日本史〉歴史人物解説 聖徳太子

日本史

今週の歴史人物シリーズ第3弾になります。今回は、みんな大好き聖徳太子について見ていきましょう。

聖徳太子

 さて聖徳太子といえば中学校の歴史ではもちろん、小学校でも出てきますね。さて、この人の「聖徳太子」以外の名前は分かりますか? 「厩戸王」ですね。それでは、聖徳太子の政策や権力獲得過程を見ていきましょう!

摂政就任まで

 用明天皇の時代、物部守屋蘇我馬子崇仏論争が繰り広げられていました。やがて用明天皇が崩御し、蘇我馬子は守屋を滅ぼしに軍を出します。このとき、聖徳太子は馬子に協力します。つまり、聖徳太子は崇仏派なんですね。

 物部氏滅亡後、即位したのが崇峻天皇です。この人は、絶対暗記ですよ! 初期の頃から、蘇我馬子が権力を持っていましたが、だんだんと蘇我馬子と崇峻天皇で対立していきます。そこで馬子ちゃんは、東漢直駒に崇峻天皇を暗殺させます。ここで、歴史上非常に珍しい天皇暗殺という事件が起きてしまいました。たぶん明確に暗殺されたことが分かっているのは崇峻天皇だけじゃないですかね。

 崇峻天皇の暗殺後、即位したのは初の女帝である推古天皇です。そして、593年に聖徳太子は皇太子に就任し、俗に摂政と言われる地位を持ちました。ちなみに皇太子になった聖徳太子ですが、実際に天皇になることはありませんでした。

 また一つ。文化史的な面も関連付けて紹介しておきましょう。聖徳太子が、物部氏を弔うためにある寺院を建立しました。なんでしょうか? 四天王寺ですね。先に言っておいてすいませんが、建立の経緯にはいろんな説があります。まあ詳しく知りたい人は、日本書紀の記述とか見てください。物部氏との闘いに関係があることは間違いなさそうですよ。

内政

 まず聖徳太子が目指したものは何だったのか? 中央集権国家です。これを念頭に置いて、具体的に見ていきましょう。

 603年、冠位十二階制度を導入しました。これは、冠位を12個のランクに分けるというだけではありません。家柄に関係なく才能で登用したというところが重要なんです。要はですね、お父さんが優秀で息子がポンコツのパターンがあるわけですよ。そうなると、政治もグタグタになってしまいますね。それを防ぐ狙いがありました。そしてもう1つ、これによって中央集権国家に近づきました。なぜって? 世襲概念が天皇以外崩れるんですよ。せっかく豪族が権力を握っても、一代限りのものになってしまいます。そうなれば、天皇の力は増大していきますね。

 604年、憲法十七条というっものを作りました。これは豪族たちに役人としての心構えを示すものです。ですので、「憲法」というよりかは「道徳書」の方がしっくりくるかな? こちらでは天皇に従うことを強調しています。

 以上が聖徳太子の二大政策です。これの共通点は何でしょう? 中央集権国家を目指しているということです。これ重要だよ。

 あとついでに1つまとめておきましょう。聖徳太子は蘇我馬子とともに3つの歴史書を著しています。『国記』『天皇記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』ですね。『天皇記』は蘇我蝦夷自害の際に焼失し、『国記』については焼失を逃れた説もありますが、少なくとも現存していません。。詳細は来週の『中大兄皇子編』で紹介しましょう。

対外関係

 595年に高句麗から恵慈という僧が来日しました。この人、聖徳太子の師匠になります。我々からすると聖徳太子が日本人の師匠みたいな感じですが、その師匠は高句麗から来ていたんですね。日本の師匠の師匠です。ちなみに高句麗の場所は、現在の”北の国”近辺ですよ笑。

 続いては新羅との関係について見ていきましょう。実は、新羅征討計画というものを企んでいました。600年に新羅征討軍を送り、結構有利だったようです。602年にも再び征討軍を起こします。代表は弟の来目皇子です。しかしこの人、出発直前に死んでしまいます。結果的に遠征軍は中止となってしまいました。

 続いては、遣隋使ですね。600年に第1回遣隋使を送ったという記録が中国側には残っています。一方で『日本書紀』への記述はないんですね。書き忘れたんですかね? わざとという説もあります。なぜかって? 日本は恥かいたのよ。隋の人からすると、日本の制度が分けわかめな感じだったんです。そうすると隋としては、国交結ぼうにもねぇ… ちなみに、この時の隋の皇帝は文帝です。

 その後、冠位十二階・憲法十七条など中央集権政策を次々と進めます。そして607年に満を持して第2回遣隋使を送ります。ここで送ったのは小野妹子です。ここで有名な国書が渡されましたね。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」というやつです。当時の隋皇帝である煬帝は、これに怒ったとされますが、当時高句麗との関係が悪化していたことも踏まえ、その怒りを抑えちゃいます。そして、日本に対して答礼使の裴世清とともに妹子を送り返します。これ結構なVIP待遇ですよ。

 そして翌年、裴世清を送り返すために再び妹子を派遣します。何往復するんだ(笑)って感じですが、これで終わりますのでご安心下さい。このタイミングで、高向玄理・旻・南淵請安などの留学生や留学僧を送ります。そして、これらのメンバーが帰国後に大化の改新に関わっていくんですんね!

 また614年には、犬上御田鍬を派遣します。これが事実上最後の遣隋使ですね。

仏教政策

 聖徳太子は仏教大好きでした。先に挙げた憲法十七条は、仏教・儒教をメインに作っています。また寺院も、四天王寺法隆寺などを建立しています。四天王寺はさっき説明しましたが、法隆寺については簡単に。この法隆寺の伽藍配置で特徴的なことは? 金堂と塔が横並びになっていることですね。これは覚えておきましょう。

 あとは、三経義疏か。法華経・勝鬘教・維摩教の注釈書です。このあたりはしっかり覚えましょう。

聖徳太子の死後

 彼の死後、息子の山背大兄王ってどうなったでしょう。こいつ実は、蘇我氏に暗殺されてしまいます。結果的に聖徳太子やその直系が天皇になるということはなかったのですね…

 現代においては、紙幣や収入印紙に聖徳太子の肖像画が使われたりしていましたね。今はないけどさ、現在の諭吉が聖徳太子だった時期があったみたいですよ。

まとめ

 聖徳太子については以上です。彼は伝説も多いので、あげたらきりがないのでね。そのあたりはスルー気味で話させていただきました。聖徳太子が目指したものは、仏教と中央集権国家です。この2つのポイントを忘れずに!

 次回は中大兄皇子編を配信します。

コメント

  1. 佐々木ササ子 says:

    私は漢字が苦手なので人物の名前に振り仮名が欲しいです…
    今回紹介された人物の読みは「しょうとくふとこ」さんでいいのでしょうか??
    太子さん、馬子さん、推古さんそして妹子さん…昔は今より女の人の方が偉いくらいにつけたのですね!私もこの時代に生まれたかったなぁ^ ^

    • History-teller says:

      次回以降、読みにくいものにフリガナをつけます。
      あのですねぇ、太子・馬子・妹子は男ですよ!
      でも推古天皇は女帝ですから、まんざらササ子さんの言ってることは間違っていないかもしれませんね!

      • 佐々木ササ子 says:

        みんな男だったんですね…
        この時代はあっち系の人が多かったってことかぁ(〃ω〃)
        私は新しい新羅討伐計画を考えて天皇になろうと思っていたので残念です(T . T)

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