〈日本史〉歴史人物解説 藤原時平

日本史

藤原時平

 藤原時平は、藤原基経の子供になります。お父さんは、陽成天皇を廃したり、阿衡の紛議で詔を修正させたりと絶大な権力を持っていましたよね? 忘れてしまった人は、こちら。

宇多天皇との関わり

 887年に宇多天皇が即位しました。このタイミングで、時平は蔵人頭になり、890年には公卿の仲間入りを果たします。確認ですが、まだ20歳ですからね! 20歳でこの権力は凄すぎでしょ。

 ところが891年に父の藤原基経が亡くなりました。時平はまだ21歳ですから、摂関になるのはちょっと厳しいですね。しかも宇多天皇にとってみれば、藤原基経を関白にしたことで厄介な問題がおきたわけですから、できれば避けたいという思惑もあったでしょう。結果として、宇多天皇の親政が始まりました。

 897年には宇多天皇が譲位を決めました。次の天皇は醍醐天皇でしたが、ここで宇多天皇は醍醐天皇に対して「寛平御遺戒」を残し、その中で藤原時平を政治顧問にするように伝えられました。

醍醐天皇との関わり

 899年には、藤原時平が左大臣菅原道真右大臣になりました。この2人が醍醐天皇の治世で政務を担っていくことになりました。一方で、藤原時平と菅原道真がツートップになったことで権力が取れなかった人たちからはかなり反発があったそうです。

 ところがそろそろ面倒な問題が起こってきます。藤原時平と菅原道真の仲がだんだんと悪くなってきたのです。その結果、菅原道真は「天皇を欺こうとした」罪に問われて、太宰権帥に左遷されてしまいました。これが昌泰の変ですね。

 菅原道真を追い出した後の藤原時平は、902年に延喜の荘園整理令を出したり、最後の班田を実施するなど様々な改革に着手しました。このあたりは後に延喜の治と呼ばれます。

 その後909年に藤原時平は亡くなってしまいます。39歳でした。噂によると菅原道真の怨霊に殺されたなんていう話もあるそうです。ホンマですかねぇ。次に権力を握ったのは藤原忠平でしたが…、それはまた別の機会に!

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