〈日本史〉歴史人物解説 藤原基経

日本史

 今日は藤原基経について解説します。

藤原基経とは

 藤原基経は、藤原良房の養子です。本当は藤原長良の子供なんですけどね。当時権力を握っていた藤原良房に子供がいなかったことから、養子に入りました。

 元服した時に、文徳天皇から加冠されキャリアが始まりました。そして、850年代後半には蔵人頭になりました。大出世ですよね。

 866年の応天門の変に際して、源信を捕まえるように言われたのは実は藤原基経でした。しかしこれを怪しんだ基経は父の良房に報告し、結果的に伴善男の逮捕につながりました。

実権の掌握

 その後も順調に出世し、大納言や右大臣にもなりました。そして、872年に父の藤原良房が亡くなると、そのまま実権を受け継ぎました。876年に清和天皇から陽成天皇に代わると、摂政に就任しました。陽成天皇の時代には元慶の乱が東北で起こりましたが、これも鎮圧します。

 880年には太政大臣になりました。ところが882年頃から陽成天皇との仲が悪くなっていきます。そこで、天皇の廃立を考えました。まず目をつけたのは、承和の変で廃太子になった恒貞親王でしたが、こちらは本人から断られます。そこで仁明天皇の子供であった時康親王を即位させることにしました。時康親王は光孝天皇として即位しました。ところがこの天皇、年齢は55歳です。当時からすればかなりのおじいちゃんですよね。そこで光孝天皇は、藤原基経に政治を任せることになりました。これで事実上の基経関白就任と言われます。

阿衡の紛議

 光孝天皇の次は宇多天皇が887年に即位しました。ところがこの天皇の時代に事件が起こります。天皇の詔の中で藤原基経を「阿衡」に任じると記しました。この詔を起草したのは橘広相です。ところが藤原基経はこれに抗議します。「阿衡」とは位はあるものの実権がないとケチをつけたのです。これで基経は職務放棄をします。さすがに半年も政務が滞ってヤバいと思った宇多天皇は、やむなく自分の非を認めた詔を発布し、橘広相を罷免してしまいました。これを阿衡の紛議といいます。ここでのポイントは、一人の藤原氏が天皇の詔勅を”直させた”ということです。力関係では、自分が上だと言っているようなものですよね。この瞬間を正式な関白就任と考えることがあります。

 以後は宇多天皇と藤原基経の関係が”一応”修復されました。891年に藤原基経は56歳で亡くなってしまいましたが、宇多天皇はこの経験を踏まえて以後は天皇親政を行いました。藤原氏は一旦権力が弱まってしまいました。

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