〈政経〉政党解説 日本共産党

公民

 こんにちは、政党解説シリーズです。今日は日本共産党について解説します。共産党は歴史こそ長いものの、他の政党との集合離散はありませんので、シンプルといえばシンプルです。それでは、共産党が始まった大正時代から見ていきましょう。

党史

第一次共産党

 堺利彦山川均らが、1922年に設立しました。あくまで社会党とは関係のない組織として、結党されました。そして、共産主義の国際組織であるコミンテルンに加盟し、コミンテルンの日本支部という形になりました。

 「君主制の廃止」「土地の農民への引き渡し」などを要求したため、政府からは弾圧されます。治安警察法によって、非合法政党とされました。こういった経緯もあり、堺利彦は1924年に一度解党させます。以降、この時の幹部の多くは労農派政党の結成を目指したり、転向したりなど、共産主義からは離れていきました。

第二次共産党

 1926年に、共産党が再び誕生しました。中心になったのは荒畑寒村です。かつての共産党に参加しており、解党に反対していた人物です。ただしこちらもすぐに結社禁止となります。

 これ以降、日本労農党にも接近しつつ合法活動と非合法活動をうまく使い分けて、中には山本宣治が非公式に共産党の推薦を受けて国会議員に当選するケースも見られました。

 ところが、1928年には三・一五事件が起こります。さらに1929年には四・一六事件も起こります。この2事件で共産党の関係者が大量検挙されています。

 続く1933年には、佐野学鍋山貞親が獄中から転向声明を出し、党員に大きな動揺が走りました。これでコミンテルンの方針に逆らって天皇制のもとでの一国社会主義を提唱するようになり、共産党員の転向が相次ぎました。

 その後も再建活動は続きましたが、1938年の人民戦線事件にてさらに共産党員が検挙されました。もうこれまでです。以後、第二次世界大戦も始まっていき、共産党が復活することはしばらくありませんでした。

戦後の再建

 再び日本共産党が復活したのは、第二次世界大戦が終わりGHQによる占領が始まった時です。政治犯として収監されていた共産党員の多くが、GHQ指令によって釈放され、合法政党として始動していくことになりました。中心となったのは徳田球一です。

 その後国政進出も行いましたが、天皇制の廃止などを唱えた共産党の思想はやや急進的すぎると国民が考えたため、議席数は思ったほど確保できませんでした。しかし片山哲内閣・芦田均内閣が不調に終わって社会党への失望感が広がると、社会党への票が共産党に集まり、党勢は拡大しました。

 かなり調子いいと思われたところで、思わぬつまずきがありました。1949年に中華人民共和国が成立したのです。ビビったのはアメリカ。東アジアにおける共産勢力の拡大を恐れたのです。1950年になると、共産党の国会議員など24人を公職追放(レッドパージ)とし、幹部の一部には逮捕状を出しました。これまで弾圧されていた意見を受け入れようと終戦直後は考えられていたので、この再び弾圧に走る動きを「逆コース」と言います。

 こうした弾圧の中で、共産党は所感派と国際派に分裂することになります。徳田球一ら主流派は所感派になり、宮本顕治らは国際派となりました。

 しかし1951年に、コミンフォルム(国際的な共産指導組織)は、所感派を支持して国際派を批判したため、国際派のメンバーは自己批判した上で党に”復帰”しました。

 また1951年のサンフランシスコ平和条約の際には、(ソ連や中国をのぞいて講和を行う)単独講和を唱えた保守政党に反対して、(ソ連や中国も含めた講和を行う)全面講和を唱えました。

 同じく1951年には、武力闘争の路線を採択します。武力行使も惜しまずに共産主義を求める姿勢ですね。具体的には血のメーデー事件などが起こってますね。しかし、武力闘争路線については国民から支持されなかったため、直後の選挙結果は最悪です。さらに1952年には破壊活動防止法も定められたため、もはや武力闘争路線はこれまでです。1955年には武力闘争路線を放棄していくことになりました。またこの時正式に所感派と国際派が統一されました。ここで、野坂参三が第一書記に就任しています。

 1955年頃からは、宮本顕治が事実上の指導者となりました。そして、クリーンな党のイメージを打ち出すことにします。これ以降は合法的な路線となったため、党勢は拡大に向かいます。

 また1960年代からは、中国共産党やソ連共産党とも距離を置くようになります。これまではコミンテルンあるいはコミンフォルムの日本支部というイメージであったのが、日本共産党として独自路線を歩むようになったのです。実際にプラハの春を弾圧したソ連や、中越戦争でベトナムに侵攻した中国を明確に批判しています。

 一方国内の話に戻りましょう。1974年には公明党と政策協定を結び、一時的に協力関係になろうとしました。ところが公明党は自民党と仲良くしようと頑張っていたところです。結果としてすぐに死文化してしまいました。

 1991年のソ連共産党の解散に際しては、日本共産党は「もろ手をあげて歓迎する」と述べました。もう完全に、ソ連の共産党とは別物という立場になっています。しかし、共産主義は終わったというイメージを拭うことはできず、日本共産党の立場は苦しくなります。そりゃそーだ。世界の共産主義のリーダーが消えたんだもん。日本の共産主義だって実現は難しいと考えるのが、当たり前だよね。選挙にも弱くなってきます。

 1993年の細川護煕内閣誕生時には、自民党でない政党で唯一かな、内閣には呼ばれませんでした。非自民・非共産の政党が集まって内閣が成立したのです。まあそんなことはどうでもいいのですが、この時に小選挙区制の導入が決められたのはご存知ですか? 小選挙区制というのは大きな政党に有利な制度になりますので、あまり議席を持たない日本共産党はここでさらにピンチを迎えます。

 以後の共産党は、規模を一部縮小させつつ淡々と選挙を戦って当選数を確保してきました。1990年代の選挙では20前後の衆議院議席数を持ちました。ところが、2000年代に民主党が伸長してくると、議席数は10を下回るようになりました。福島第一原発の事故があったことと安倍政権が長引いてきたことが影響して、「原発ゼロ」や「反自民」を訴えてきた共産党は2014年の総選挙では、一時的に持ち直します。現在(2017総選挙後)の衆議院議席数は12ですね。

 今回の選挙では、立憲民主党をはじめとする他の野党と選挙協力を実施しています。野党共闘についての発言が特に多いのが共産党ですね。果たして今回の選挙ではどのような結果を見せるのでしょうか。

政策

 日本共産党は特徴的な政策がいっぱいあります。憲法に津亭は徹底的な護憲主義です。「あれ、憲法に天皇制が明記されてるけどそれはいいの?」って人はいませんか? 今の共産党は「天皇制の打破」といった急進的なことよりも、漸次的に変えていくことを目指しています。よって天皇制については、将来国民の総意によって存続か廃止かを決められるという考えを持っています。また、自衛隊は反対です。憲法違反であるとしています。

 あとは共産というくらいですから、福祉政策は充実させていく方向です。大学や高校の無償化も主張しています。貧困世帯への支援も唱えています。特に今はコロナ禍ですしね。

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