〈日本史〉歴史人物解説 聖武天皇

日本史

聖武天皇とは?

 奈良時代で最も有名な天皇ですね。彼の父親は文武天皇、母親は藤原宮子になります。このあたりは、聖武天皇を勉強する上で絶対に知っておきたい知識ですね。

 今回は、奈良時代前半の出来事を聖武天皇の目線で見ていきます。なお、政権担当者の目線で解説した記事もありますので、こちらも良ければセットでご覧ください。

聖武天皇の誕生

 701年、当時の天皇である文武天皇の第一子として誕生したのが首皇子(後の聖武天皇)です。文武天皇の妻は、藤原不比等の娘である藤原宮子でした。つまり、聖武天皇は藤原不比等の孫ですね。まあ何がともあれ、次の天皇として大いに期待されていたのが彼でした。

 ところが、707年に文武天皇が亡くなってしまいます。首皇子は、当時まだ7歳。さすがに天皇になる年齢ではない。そこで、おばあちゃんの元明天皇が中継ぎとして天皇に即位しました。

 714年に首皇子の元服が行われると、即位しようじゃねーか的な雰囲気になりますが、実はここでの即位は先延ばしになります。理由としては、彼が少し病弱であったのに加え、天皇家と藤原氏の対立があったことなどがあります。そのため、715年に次の天皇が即位することになりますが、そこでは伯母の元正天皇がこれまた中継ぎとして即位しました。

聖武天皇の即位

 いよいよ即位となったのが、724年です。当時の彼は24歳、まあ天皇としてはだいぶ若いですよね。この時代に政権を担当していたのが長屋王になります。言わずもがな、皇親勢力の代表です。

 ところで、聖武天皇の奥さんと言えば、誰だか分かります? パッと出てくるのは藤原光明子ですよね。光明子も宮子と同様、藤原不比等の子になります。考えてみてください、すごい光景ですよ。光明子からすると、夫の父親の妻(つまりは義母)がお姉ちゃんの宮子ですからね。かなり信じられない状況になります。

最初の”いざこざ”

 まあそんなことは良くて、この当時に光明子をめぐってある問題が起きていました。それは、光明子を皇后として認めるかどうかということです。この時代は、中継ぎとして皇后が臨時で天皇になる可能性がありました天武天皇の死後に即位した持統天皇が代表例ですね。そのため、皇后になるのは皇族出身者と決められていたのです。つまり光明子は”奥さん”になれても”皇后”にはなれなかったのです。ところが、藤原氏は光明子を皇后に立てようと必死です。対して政権を担っていた長屋王は光明子の立后に反対しました。

 この対立に決着をつけたのが729年の”あの事件”です。そうです、長屋王の変ですね。ここで長屋王が自害したことで、2つの歴史的意義が生じます。一つは、政権担当者が藤原四子となり再び藤原氏の時代になったこと、もう一つは光明子の立后に成功したことです。藤原四子については、冒頭で紹介した記事に詳しい説明を載せているのでここでは省略しますが、光明子の立后についてはここでじっくり考えていきます。

 まず、これまでは皇族出身者に限られていた皇后の地位であったはずが、光明子が光明皇后として即位した。これ自体が重要な出来事です。しかしそれだけでなく、一般氏族が皇后になることの先例ができてしまったわけで、これ以降は藤原氏の皇后がたくさん登場します。(ちなみに厳密には、仁徳天皇の皇后は一般氏族出身だったらしいですよ)

相次ぐ遷都

 737年に天然痘の大流行が始まりました。これによって日本国内では多数の死者が出て、当時の政権を担っていた藤原四子も亡くなってしまいました。これすごい出来事ですよね、今のイメージからすると、副総理・官房長官が一気に亡くなってしまうようなものですよ。それは、総理大臣パニックよね。聖武天皇も同じように大パニックでした。

 さらに追い打ちをかけるように740年には藤原広嗣の乱がおこります。これに聖武天皇は衝撃を受けます。なんでかって? 藤原広嗣は藤原宇合の子、つまりは藤原不比等の孫ですよ。思い出してください、聖武天皇も藤原不比等の孫ですよね。ですから、聖武天皇からすれば親戚の人が反乱を起こしたということです。

 このような危ない2つの出来事の連続し、さらに時を同じくして火災や大地震なども発生しました。で、聖武天皇は突然関東行幸を始めます。そして平城京に戻らず、恭仁京に遷都してしまいます。その後も、難波宮紫香楽宮平城京と、5年の間に4度も遷都しました。現在から考えても異常ですよね。

 ちなみにこの時代の政権は、藤原氏の重要人物が相次いで亡くなったこともあり、橘諸兄が担当しています。この政権の下で、743年墾田永年私財法が制定されましたね。

仏教への帰依

 災いが多かったこの時代、聖武天皇が頼ったのは仏教でした。なんとか仏教の力で、国を治めよう。災いを鎮めよう。こうした考えを鎮護国家と言います。

 具体的な仏教政策を見ていきましょう。741年には国分寺建立の詔を出しました。これは、諸国に国分寺・国分尼寺の建立を命じたものですね。そして743年には大仏造立の詔を出しました。これが、後の東大寺の廬舎那仏ですね。

 遷都を繰り返す中で、このような仏教政策も行っています。とにかく聖武天皇は災いを鎮めたいばかりに、様々な行動を起こしていきます

譲位と死後

 749年に聖武天皇は、娘の孝謙天皇に譲位します。ちなみに、生前に譲位して上皇となったのは男性で聖武天皇が初めてだそうです。このあたりのタイミングで、政権担当者が橘諸兄から藤原仲麻呂に代わってきます。仲麻呂は光明皇后の信頼によって、権力を獲得しました。

 752年には東大寺の大仏開眼供養に参加しています。また、754年に来日した鑑真とも会っているようです。ちなみにこの頃、母の藤原宮子は亡くなっています。

 そして756年に聖武太上天皇は亡くなってしまいました。死後、遺品の一部は東大寺の正倉院に納められました。聖武天皇の死後、しばらくの間は光明子の支持を得た藤原仲麻呂が権力を握っていましたが、760年に光明子も亡くなったことで藤原仲麻呂も徐々に権力を失っていきます

まとめ

 以上が聖武天皇から見た奈良時代前半の流れになります。次回は、藤原仲麻呂の目線で話を進めていきたいと思います。

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