〈日本史〉歴史人物解説 藤原仲麻呂

日本史

藤原仲麻呂とは

 皆さん大好きの藤原氏です。藤原仲麻呂は、橘諸兄の次に権力を握った人物として知られていますね。彼は藤原不比等の孫で藤原武智麻呂の子になります。すなわち南家の人物です。南家の中で、日本史に出てくるのは武智麻呂と仲麻呂だけですね。

 ※藤原仲麻呂の前に権力をもっていた、橘諸兄についての解説はこちらをご覧ください。

急速な昇進

 藤原仲麻呂は、もともと藤原家という名門に生まれたことと、幼いころから聡明で賢かったころもあり、かなり期待されていたんでしょうね。そして、藤原四子の全盛期に政界進出を果たしました。お見事!

 ところがですね、ここで悲劇が起こります。父の武智麻呂を含んだ藤原四子が、天然痘によって全員亡くなってしまうんですね。これ以降に権力を掌握したのが橘諸兄でした。

 父を失った仲麻呂ですが、橘諸兄政権の下では順調に昇進していきました。そして自らの派閥を作ったり、阿部内親王(後の孝謙天皇)や光明皇后(仲麻呂の伯母)と良好な関係を築くなど、ついには橘諸兄に拮抗するようになりました。

政権の掌握

 749年に聖武天皇が譲位し、新たに阿部内親王が孝謙天皇として即位しました。これを機に、仲麻呂は一気に大納言に昇進し、さらに新設された紫微中台の長官に就任しました。そして、徐々に橘諸兄の勢力を削っていきます。

 当時の太政官のトップ(仲麻呂の1段階上の立場)は、橘諸兄藤原豊成という人物がいました。まあ、仲麻呂はこの2人を排除したいわけなんですね。ところがですね、藤原豊成については仲麻呂の企てを察知して隙を与えてくれません。一方の諸兄については、朝廷を誹謗したと密告されて、あっさり退場してしまいます。

 そしてついに、仲麻呂は藤原豊成に次ぐ朝廷のトップ2になりました。すると手始めに、皇太子を自分の思い通りの人物(後の淳仁天皇)にさせ、将来の基盤確保に努めます。また、祖父の藤原不比等が制定した養老律令をついに施行します。さらに仲麻呂は紫微内相に就任し、大臣に次ぐ地位につきました。

橘奈良麻呂の乱

 そんな感じで順調に昇進した仲麻呂に対して、ちょっと納得できない人物がいます。橘諸兄の子である橘奈良麻呂ですね。彼が大伴氏の人などを壮大に巻き込んで仲麻呂の殺害を試みました。ところがね、バレちゃったんだよね。残念ながら計画は事前に露見し、全員捕らえられました

 この騒動でちゃっかり得をしたのが仲麻呂です。実は、この時に永遠のライバルであった藤原豊成が、反乱に関与したとして左遷されます。これでついに仲麻呂がナンバー1になったわけですね。

仲麻呂の最盛期

 さあ名実ともに朝廷の最高権力者になった仲麻呂ですが、これ以降は絶好調です。孝謙天皇が譲位した後に、仲麻呂の息がかかった淳仁天皇が即位します。そして、徳治政策をいろいろと行っていきます。また、760年には太師に任命されます。太師とは太政大臣のことなんですが、皇族以外でこの地位につくのは仲麻呂が初めてです。

 また唐風政策を実施したというのもポイントですね。様々な官職名を中国風に変えちゃいます。また、自らも恵美押勝と名乗りました。中国大好きなんですね。

 ただね、中国は大好きでも新羅には攻めようとするんですよ。新羅使節が日本人に無礼をはたらいたとして、かなり大がかりに新羅征討計画を立てます。ただし最終的には実行に移されませんでした。

仲麻呂の失脚

 760年に仲麻呂にとって大打撃の事件が起こりました。これまで仲麻呂政権を支えていた光明皇太后が亡くなってしまいました。後ろ盾を失った仲麻呂はさすがに焦ってきますよね。

 さらにこの頃、徐々に孝謙上皇とも仲が悪くなってきました。孝謙上皇は僧の道鏡を寵愛するようになっていました。対立構造としては「孝謙上皇+道鏡 VS 淳仁天皇+仲麻呂」という感じですね。

 ということで、仲麻呂はついに反乱(藤原仲麻呂の乱)を起こします。ところがね、孝謙上皇方も負けてないんですよ。仲麻呂の謀反の密告を事前に受けたため、どんどん先手を打っていきます。そしてついには仲麻呂チームは敗れて、最終的に仲麻呂は斬首されました。そして、藤原氏の勢力も一時的に衰退し、次に権力を握ったのは道鏡でした。

まとめ

 以上が藤原仲麻呂の話です。次回は、道鏡について見ていきましょう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました