衆議院議員総選挙間近ということで、政党の歴史を解説する企画をやっています。今回は第3弾、国民民主党です。
国民民主党の歴史について、民主党政権から解説していきます。
国民民主党とは
国民民主党は、現在の野党です。2018年5月に成立しました。代表は玉木雄一郎で、国会では少数ながら存在感を発揮している政党です。
今回は前身の民主党の歴史から解説していきます!
新党ブームと民主党の成立
1993年総選挙
1993年の衆議院議員総選挙では、自民党が単独過半数を割ってしまいました。
自由民主党 223議席
日本社会党 70議席
新生党 55議席
公明党 51議席
日本新党 35議席
日本共産党 15議席
民社党 15議席
新党さきがけ 13議席
社会民主連合 4議席
これを機に、非自民・非共産の7政党(日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合)+1会派(民主改革連合)の連立政権が成立します。中心となったのは、新生党の小沢一郎です。日本新党の細川護煕、新生党の羽田孜と順番に内閣を作ってきました。
ところが羽田内閣退陣後、自民党が日本社会党に接近し、新党さきがけとともに、「自社さ」連立政権を発足させました。これが村山富市内閣です。
自民党の分裂と野党再編
細川内閣の退陣を受けて、自由党・新党みらい・改革の会の3勢力が自民党を離脱しました。また羽田内閣の退陣を受けて、海部俊樹が高志会を結成し、自民党を離党しました。
自民党から分裂してできた政党
<宮沢内閣時代(1993年)>
・新党さきがけ(武村正義)
・新生党(羽田孜、小沢一郎)
<細川内閣時代(1994年)>
・自由党(柿澤弘治) ※高市早苗参加
・新党みらい(鹿野道彦)
・改革の会(会派) ※石破茂参加
<羽田内閣時代(1994年)>
・高志会(海部俊樹)
このうち、自由党・新党みらい・改革の会・高志会が参加する形で、自由改革連合という政党連合が作られました。1994年に自民党を離脱した勢力がここで結集しました。
そして、1994年には新進党が成立します。羽田孜が率いる新生党、細川護煕が率いる日本新党、海部俊樹が率いる自由改革連合、公明新党(公明党の一部)、民社党が参加しました。これでいよいよ非自民野党がまとまってきました。新進党の初代党首は海部俊樹、翌年には2代党首に小沢一郎が就任します。
この時、取り残された政党があるのはお気づきですか? わけがわからないので、一旦全政党を整理します。
自由民主党→引き続き存続
社会民主党
新生党→新進党へ
公明党→一部新進党、基本存続
日本新党→新進党へ
日本共産党→引き続き存続
民社党→新進党へ
新党さきがけ
社会民主連合→1994年に解党
民主改革連合
自由党 →自由改革連合から新進党へ
新党みらい→自由改革連合から新進党へ
改革の会 →自由改革連合から新進党へ
高志会 →自由改革連合から新進党へ
全政党・全会派並べてみましたが、やはり多いですね。見ればわかりますが、社会民主党・新党さきがけ・民主改革連合の行き先が謎ですね。
民主党の成立
はじめに動いたのは、新党さきがけに所属する鳩山由紀夫と菅直人でした。のちに首相になる2名です。両名が、新進党とは別の野党勢力をつくろうと民主党を1996年に結党しました。ここには、新党さきがけの一部と社会民主党の一部が参加します。ただし、社会民主党の実力者である村山富市元首相・土井たか子、新党さきがけの代表である武村正義の参加を拒否しました。いわゆる「排除の論理」です。
そして、1996年の総選挙を迎えます。
第41回衆議院議員総選挙(定数500名)
自由民主党 239議席
新進党 156議席
民主党 52議席
日本共産党 26議席
社会民主党 15議席
新党さきがけ 2議席
民主改革連合 1議席
自由民主党は単独過半数を下回りましたが、第1党は維持します。一方で、新進党や民主党も伸び悩んでしまいます。野党候補が乱立したことで、惜しくも敗れる野党候補が多かったのです。また、社会民主党と新党さきがけは民主党に多くの候補者や支持母体を持っていかれたことで、少数政党になってしまいました。
敗北した新進党は、これを機に分裂してしまいます。1996年に羽田孜率いる太陽党、1997年に細川護煕率いるフロムファイブが新進党を離脱していました。さらに、鹿野道彦率いる国民の声、小沢一郎率いる自由党、それ以外にも改革クラブ・新党平和・新党友愛・黎明クラブに分裂します。のちに、太陽党・フロムファイブ・国民の声は合流して羽田孜をトップとした民政党になります。
そして、1998年には民主党がレベルアップして再結成されます。1996年からの民主党メンバーに加え、民主改革連合・民政党・新党友愛が合流し、(新)民主党となります。基本的には元来存在した民主党を引き継いでいますが、一応「旧民主党」「新民主党」と区別されることが多いです。初代代表は菅直人ですが、鳩山由紀夫と代表選を行い、交代で代表を務めていました。
新進党の分裂まとめ
・太陽党→民政党へ
・フロムファイブ→民政党へ
・国民の声→民政党へ
・自由党→独自の道へ
・改革クラブ→2000年に解党
・新党平和→公明党へ
・新党友愛→民主党へ
・黎明クラブ→公明党へ
新進党の分裂の様子は、一応紹介しておきます。太陽党・フロムファイブ・国民の声・新党友愛が民主党に合流したんですね。自由党は小沢一郎が率いた政党で、ほぼ唯一独自の道を歩んでいきます。
自由党は、1999年に自民党との連立政権に参加します。しかし、2000年に連立を離脱してしまいます。
民主党の野党時代
民由合併
2000年6月に森内閣のもとで衆議院議員総選挙が行われました。
2000年6月衆議院議員総選挙(定数480名)
自由民主党 233議席
民主党 127議席
公明党 31議席
自由党 22議席
日本共産党 20議席
社会民主党 19議席
保守党 7議席
ということで、民主党の議席は約2倍にまで増加します。野党第一党の座は民主党になってきました。ちなみに自民・公明・保守は3党連立内閣を構成しています。日本共産党と社会民主党は独自路線です。残るは民主党と自由党ですが、この2党もついに合併します。
2003年、小沢一郎率いる自由党が、民主党に合併することになりました。これを民由合併といいます。非自民・非共産の勢力の多くが統一されたのです。当時の首相は小泉純一郎です。「聖域なき構造改革」を掲げ、民主党の主張と被ってくる部分もありました。民主党は「対決路線」ではなく、「対案路線」を採っていくことが多かったとされています。
2003年の総選挙では、民由合併が功を奏します。
第43回衆議院議員総選挙(定数480名)
自由民主党 237議席
民主党 177議席
公明党 34議席
日本共産党 9議席
社会民主党 6議席
保守新党 4議席
郵政選挙で大惨敗
2004年には岡田克也が代表に就任しました。この人、イオン創業者を父に持つ人です。菅直人・鳩山由紀夫という2枚看板以外で、初めての代表就任者となります。
迎えたのは、第44回衆議院選挙、俗にいう「郵政選挙」です。自民党の小泉純一郎が、自身の目玉政策である郵政民営化に反対する議員を「抵抗勢力」に位置付け、党の非公認・刺客候補の擁立に動きます。自民党が大きく二分されてしまったのです。民主党からすれば、自民党が分裂選挙になったことで、政権獲得への千載一遇のチャンスでした。
ところが小泉劇場を前にして、埋没気味。2005年9月の結果はこちら。
第44回衆議院議員総選挙(定数480名)
自由民主党 296議席
民主党 113議席
公明党 31議席
社会民主党 7議席
国民新党 4議席
新党日本 1議席
新党大地 1議席
民主党は前回から獲得議席が大幅に減ってしまいます。これで、岡田克也は代表を辞任しました。
堀江メール問題
次の代表は前原誠司です。つい1年前の2023年までは国民民主党、教育無償化を実現する会を結成したのち、日本維新の会に合流しました。
2005年に、岡田克也から引き継ぐ形で、再び若手が代表になりました。しかし、前原代表体制は1年間で終わってしまいます。
きっかけは小泉内閣に対して国会で追及する際に、偽のメールを使ってしまったという事件です。これで、前原代表は辞任となりました。
”あの男”が帰ってきた
次の代表は、歴戦の政治屋、小沢一郎です。自由党として合流し、民主党の代表に就任します。
2007年には、参議院議員選挙で自民党に快勝し、参議院の第1党の座を自民党から奪いました。これにより、衆議院と参議院で第1党が異なる「ねじれ国会」の状態になります。民主党にとってみれば、政権交代への布石となります。
しかし、献金問題で批判を受け、公設秘書が逮捕されたため、2009年5月に代表を辞任しました。さあ、2005年9月に選挙が行われて以来まもなく4年。衆議院の任期はあと4ヶ月ほどにまで迫ります。次の代表は、鳩山由紀夫と岡田克也で争われ、小沢一郎の支援を受けた鳩山由紀夫が党代表に返り咲きます。
民主党政権
鳩山由紀夫内閣
鳩山由紀夫の下で、第45回衆議院議員総選挙を戦いました。対する自民党のトップは麻生太郎です。
民主党 308議席
自由民主党 119議席
公明党 21議席
日本共産党 9議席
社会民主党 7議席
みんなの党 5議席
国民新党 3議席
新党日本 1議席
新党大地 1議席
民主党が300議席を超える形で圧勝します。308議席という数字は、単独政党として、いまだどの政党も取ったことのない数字です。民主党は国民新党・社会民主党と連立する形で、政権交代を成し遂げました。
日本国内としては55年体制以来、2度目の政権交代となります。この2度の政権交代の中心には、やはり小沢一郎がいました。
鳩山内閣は2009年に成立し、2010年までの1年間しか続きませんでした。原因は沖縄の米軍基地移設問題でしょう。就任当初は、移設先は「最低でも県外」と言っていましたが、ブレブレで沖縄県内での移設を考え直すことになりました。結局は、自民党時代の日米合意とほぼ同じ内容で決着となってしまいました。
これに対して、社会民主党は反発し、連立政権を離脱してしまいました。これにより、民主党と国民新党の2党連立内閣となります。
菅直人内閣
続く菅直人内閣は、2010年に成立し、2011年までの1年間の短命内閣でした。鳩山由紀夫の後任を選ぶ代表選挙には、菅直人と樽床伸二が出馬しました。樽床伸二は小沢一郎が擁立します。結果は菅直人が勝利します。そのため、小沢一郎と距離のある人が要職に起用されました。
菅直人内閣は、消費税増税にふれ出したことで世論の批判を浴び、参議院選挙で自民党に大敗して過半数を割ってしまいます。
2011年3月に東日本大震災が起こると、枝野幸男幹事長は連日会見をしたことで「枝野寝ろ」という言葉がネットで話題となりました。しかし、全体の対応としては大きな批判をくらってしまい、菅直人は退陣してしまいました。
野田佳彦内閣
次の首相は、財務大臣の野田佳彦です。2024年9月の立憲民主党代表選で、新代表に就任した人です。これは民主党政権の最後の首相となります。2011年9月から2012年12月まで1年ちょっと首相を務めました。
ところがここで民主党は大分裂してしまいます。きっかけは、野田内閣の消費税増税法案です。これに多くの民主党議員が反対を示し、採決では棄権に回るなどの造反が相次ぎました。
そして、動いたのは「政界の壊し屋」こと小沢一郎です。小沢一郎を含めた側近議員が一斉に民主党を離党し、国民の生活が第一という政党を作ります。代表はもちろん小沢一郎です。
一方の追い込まれた野田首相は、議員定数削減と引き換えに衆議院の解散を宣言します。これは、誰もが驚くような奇策でした。2012年12月に衆議院議員総選挙が行われました。
衆議院の解散を受けて、国民の生活が第一は、滋賀県知事の嘉田由紀子が作った日本未来の党に合流しました。ここには国民新党の亀井静香も合流します。
2012年12月衆議院議員総選挙(定数480名)
自由民主党 294議席
民主党 57議席
日本維新の会 54議席
公明党 31議席
みんなの党 18議席
日本未来の党 9議席
日本共産党 8議席
社会民主党 2議席
民主党は惨敗です。日本未来の党も9議席と苦戦しました。これで野田佳彦内閣は総辞職、第2次安倍晋三内閣が成立となり、再び自公連立政権の時代となりました。
ちなみに小沢一郎や嘉田由紀子らが所属する日本未来の党は大惨敗し、この結果分裂となりました。小沢一郎は生活の党という形で新たなスタートを切っていきます。
また、亀井静香らが離党した国民新党も大惨敗して、政党要件を失ってしまいました。
民主党は野党へ
海江田万里代表
民主党は野党の時代となります。次の代表は海江田万里でした。この状態で2014年の衆議院議員総選挙を迎えました。結果は民主党議席が10議席ほど増えましたが、海江田万里本人が落選してしまい、代表を辞任しました。
岡田克也代表
次の代表は岡田克也です。当時、第三極の立場にいた維新の党との連携を模索します。そして、民主党と維新の党の合流まで、決めることに成功します。これで民主党は終わり、新たに民進党が結成されました。2016年のことでした。
ちなみにこの時、新党名は一般の人に投票してもらう形で決めましたが、候補の中には「立憲民主党」もありました。
民進党の時代
岡田克也代表
民進党の初代代表は岡田克也です。岡田克也は、さらに共産党との連携も進めて行きます。いわゆる野党共闘の時代がやってきました。
民進党・社会民主党・生活の党・日本共産党の4党は、候補者の調整を進め、2016年の参議院選挙に勝負しましたが、結果はイマイチ。その年は東京都知事選挙もあり、無所属小池百合子 vs 自民増田寛也 vs 野党統一鳥越俊太郎 という形に持っていきましたが、結果は小池百合子の圧勝に終わりました。
岡田克也は、2016年9月の代表選挙に出馬しないという選択を取りました。
蓮舫代表
次の代表は蓮舫です。覚えてますか? この前の東京都知事選挙に出馬していた、蓮舫さんです。まず、民主党系では初の女性代表ですね。蓮舫、前原誠司、玉木雄一郎の3氏で代表戦を戦った結果、選ばれました。
しかし2017年の都議会議員選挙にて、蓮舫率いる民進党は、自民党 vs 都民ファーストの会(小池百合子の地域政党)の戦いの中で埋没してしまい、過去最低議席に沈みました。
その結果を踏まえて引責辞任となります。
前原誠司代表
次の代表選には、保守系の前原誠司とリベラル系の枝野幸男が立候補し、前原誠司が当選しました。前原さん、民主党以来ひさしぶりの党代表です。しかし民進党は深刻な状況。共産党連携や相次ぐ選挙惨敗を受けて、党を離れる人が続出してしまいます。
前原さんの信条といえば、「非自民・非共産勢力の結集」です。これは昔も今も変わりません。そして、当時台頭してきたのは小池百合子東京都知事率いる希望の党です。希望の党には、民進党から離れた議員も結成の中心となりました。小池百合子は、東京都知事選挙・東京都議会選挙で圧勝しており、世間の注目はかなり集まっていました。
そこで民進党代表の前原誠司は、次の衆議院議員選挙で、希望の党に公認申請をすることにしました。すなわち、民進党を実質的に希望の党に合流させるという策を使います。
しかしトラブルはここで起こりました。小池知事が民進党の中でもリベラル派と呼ばれる人を、「排除する」と発言したです。さらに首相経験者の菅直人や野田佳彦も「ご遠慮いただく」という旨の発言が希望の党からありました。これで民進党内のリベラル派(具体的に言えば、は行き場を失います。
本当かどうかは分かりませんが、出回ったとされる排除リストは以下の通りです。
安住淳、枝野幸男、野田佳彦、長妻昭、初鹿明博、菅直人、阿部知子、篠原孝、近藤昭一、赤松広隆、岡田克也、辻元清美、海江田万里、手塚仁雄、櫛渕万里
この記事で紹介した人が多くいることがお分かりですかね。民進党内で力を持っていたメンバーの多くは希望の党から除外されてしまいます。
民進党の分裂
「枝野立て」
さてSNS界隈では、「枝野立て」という声が高まります。枝野幸男らリベラル系は、民進党の公認をもらう、無所属で出馬する、新党を設立する、の3択しかありません。しかし、民進党の公認については、前原誠司代表が拒否したため、選択肢は2択に絞られます。
枝野幸男は、新党に向けて動きました。そして、立憲民主党を設立しました。ここにはリベラル系の路頭に迷った人が多数参加しました。一方で、希望の党にも立憲民主党にも参加せずに無所属で出馬する人もいました。いずれにせよ、次の選挙は立憲民主党と希望の党の、野党主導権争いの選挙となりました。
2017年10月衆議院議員総選挙(定数465名)
自由民主党 284議席
立憲民主党 55議席
希望の党 50議席
公明党 29議席
日本共産党 12議席
日本維新の会 11議席
社会民主党 2議席
結果、立憲民主党が希望の党を上回って野党第1党となりました。これでいろんなことが起こってきます。
まず、民進党の前原誠司代表は引責辞任し、次の代表には大塚耕平が就任します。大塚耕平ら参議院議員は、あくまでまだ民進党所属ですからね!
一方の立憲民主党には、参議院議員も次々と参加し、着々と勢力を拡大していきました。
希望の党については、次の章で詳しく解説していきますが、端的に言えば小池百合子の体制から玉木雄一郎の体制に変わっていきます。
ちなみに、小沢一郎はどこいったか話しておきますね。生活の党を結成していた小沢一郎は、名称を自由党に改称します。そうです、かつて自民党と連立政権を組んだ小沢一郎の「代名詞」とも言える、自由党を再び結成したのです。しかし今回の選挙には、自由党として公認候補を出さず、小沢一郎本人は無所属として参加することになりました。
このため、かつて政権を担った民主党は、民進党(大塚耕平)・立憲民主党(枝野幸男)・希望の党(玉木雄一郎)・自由党(小沢一郎)の4つに割れてしまいました。
国民民主党の成立
希望の党の分裂
希望の党は玉木雄一郎が共同代表選挙に当選したのち、小池百合子が代表を辞任し特別顧問になりました。これで玉木雄一郎代表が率いることになります。
最初の難局は古巣の民進党との合流でした。賛成派と反対派で党内は二分されます。多くは元民進党ですので、合流には乗りやすいですが、松沢成文は合流には反対でした。
そこで玉木雄一郎は一度希望の党を解党し、合流賛成派で「国民党」を結成します。一方の松沢成文は「希望の党」を新たに作りました。そして、玉木雄一郎の「国民党」と大塚耕平の「民進党」が合流することで、新たに国民民主党が成立しました。2018年5月の出来事です。
玉木・大塚共同代表
初めは、玉木雄一郎と大塚耕平の共同代表制が採用されました。開始時の支持率は0.8%という数字も出ています。当時の民進党と希望の党の議員の60%程度の参加にとどまってしまい、必ずしも順調な船出とは言えませんでした。蓮舫元代表などは反発して民進党を離党してしまいました。
この頃から出ていたスローガンが「対決より解決」です。立憲民主党は自民党に対する”対決路線”とよく言われる中で、差別化を図ったものと見られます。あくまで政策提案に重きを置くという路線が取られました。
2018年9月には代表選挙が行われ、玉木雄一郎が選ばれました。
玉木雄一郎代表
2019年、小沢一郎率いる自由党の合併に成功しました。旧民主党の勢力は、自由党の合併によって、立憲民主党と国民民主党という2つの政党にまとまりました。
そして、2020年にはついに立憲民主党との合流に動きます。枝野幸男と小沢一郎との話し合いをきっかけに、2019年から何度も話し合いを重ねてきました。立憲側と国民側でなかなか意見も折り合わず、国民民主党内にも合流賛成派と合流反対派がいました。
そこで玉木雄一郎が国民民主党の分党を決断します。立憲民主党・国民民主党ともに一度党を解体し、国民民主党の合流賛成派は「民主党」、合流反対派が新党を結成することになりました。賛成派代表が泉健太でした。そして、枝野幸男の立憲民主党、泉健太の民主党が合併し、新たに「立憲民主党」が成立し、新代表に枝野幸男が選ばれました。
一方の残留組が、今回の主役です。玉木雄一郎、前原誠司、榛葉賀津也、大塚耕平らが新たに「国民民主党」を結党しました。
新・国民民主党
新たな国民民主党は、2020年9月に13名でスタートしました。完全な少数政党です。しかし、それでも独自の「対決より解決」路線で、存在感を発揮していきます。
2021年3月時点で、衆参合わせて19人まで人数を増やします。そして、いよいよ2021年9月の総選挙がやってきました。
衆議院には公示前8議席を持っていましたが、選挙後には11議席に伸ばすことに成功しました。共産党を抜いて、衆議院では野党第3党になります。
トリガー条項凍結解除への挑戦
国民民主党は、ガソリン料金引き下げのためのトリガー条項凍結解除に力を注いでいきます。そのためには与野党問わずに協調する路線を選んだのでした。
2022年の当初予算には、トリガー条項凍結解除への言質を岸田首相から取ったとして、なんと野党としては異例の賛成をしました。一時は、自公国連立政権になるのではとまで言われましたが、連立入りが実現することはありませんでした。あくまで政策本意で与野党問わずに連携するという態度を明確にします。
2022年の補正予算案にも賛成しましたが、2023年の当初予算には反対しました。反対理由は賃上げに不十分だからとされています。
2023年9月には、代表選挙が行われ、玉木雄一郎と前原誠司で争われました。ここでは党運営に関して大激論が交わされます。玉木雄一郎は政策本意の与野党問わない連携路線、それに対する前原誠司は非自民・非共産の野党結集路線でした。覚えてますか? 前原誠司といえば「非自民・非共産の協力」がキーワードですからね。そのため、当初予算案に賛成することに対して、前原誠司は「自民党の政策森羅万象に賛成するのと同じである」と違和感を覚えていました。
2023年10月の補正予算には、トリガー条項の凍結解除の実現が進みそうなことから、賛成を投じていました。
前原誠司が離党
2023年11月、前原誠司がついに離党を決断します。前原誠司・斎藤アレックス・嘉田由紀子・鈴木敦の4名が国民民主党を離れ、新たに「教育無償化を実現する会」を結成しました。この党は、最終的に日本維新の会に合流しますが、比例代表で当選した議員が他党に入ることができないため、新党を結成したと言われています。
これで国民民主党はパニックです。しかし、それでもトリガー条項凍結解除を取りに行くという姿勢を崩すつもりはありませんでした。
ところが想定が狂ったのは、自民党の裏金問題です。これが世論の大批判を浴びました。そこで立憲民主党が内閣不信任決議案を提出し、国民民主党はこれに賛成することにします。「政策本位の連携」以前に「正直な政治」が大前提という信念を持ち、賛成にまわりました。それが原因で、自民公明はトリガー条項凍結解除に積極的に動くことがなくなりました。
そして2024年2月には、トリガー条項の与党との協議から離脱を決断しました。結論としてはトリガー条項に対して、予算案に賛成までして全力を傾けましたが、実現はできなかったのです。
そして2024年4月には、名古屋市長選挙に出馬するために大塚耕平が離党してしまいます。前原誠司に続いて大物議員がまだ離れてしまいました。
国民民主党の未来は?
では国民民主党は潰れてしまうのか。いや、そんなことはありません。今回の選挙では、多くの情勢調査で国民民主党の議席増が予測されています。
国民の「手取りを増やす」を前面に出して、選挙に挑むことになりました。あえて名付けるなら、「日本一マトモな政党」が良いかもしれません。ぜひ注目したいですね!
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