〈日本史〉基礎通史⑤ 明治初期の政治制度

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明治維新前の政治制度

明治時代と江戸時代の政治制度の最も大きな違いは、政治制度のトップが将軍か天皇かという違いがあります。将軍が政治の中心であった幕府政治には、大名などの武士が幕府という政治機構の中で重要な役職についていました。

  • 一点アップポイント…幕府の中で通常「将軍」がトップに立ちその下に「老中」という役職がある。さらにその下に「若年寄り」という役職があるが、なぜ”若年”寄りというのか?これ疑問に思いますよね。理由は、幕府ができた当時は「老中」という役職の名前は「年寄り」だったのです。その後名称が変更になり「老中」という名前になりました。そのため「年寄り」の下にある役職であったため「若年寄り」という名前がつきました。

明治初期の政治制度

1867年に王政復古の大号令により総裁、議定、参与の三職が置かれました。その翌年、太政官七官制となり、さらにその翌年、太政官二官六省制になりました。1871年に、太政官三院制となりました。この三院は正院、左院、右院の三つのことを指しています。

 このように、明治初期に政府の制度がだんだんと確立していく中で、いわゆる藩閥政治の形が出来上がっていきました。藩閥政治の中心としては薩摩、長州、土佐、肥後の薩長土肥でしょう。この薩長土肥に加えて、天皇に近い公家などが政府の役職に就きました。

軍隊の組織

近代国家として必要となる物の中には軍事力が必要となってきます。明治政府も欧米列強を手本に軍制に乗り出します。

まず1869年に兵部省が設置されます。兵部省の設置には長州藩出身の大村益次郎が尽力しました。大村益次郎は同じ年に暗殺されてしまうのですが、長州藩出身の大村が軍隊の基礎を作ったため、こののちに置かれる陸軍大臣などの陸軍の重要な役職には山縣有朋ら長州出身の人物が多くつきました。逆に海軍の重要な役職には薩摩出身の人物が多く就きました。

1871年に御親兵が徴収され、鎮台が置かれました。この鎮台というのは、陸軍の兵士が駐屯する場所のことを指し、東京、大阪、東北、鎮西の4つの鎮台が設置されました。

1872年になると兵部省は廃止され、陸軍省、海軍省が設置されました。そしてこの年「徴兵告諭」が出されました。

1873年に「徴兵令」出されました。この徴兵令は「国民皆兵」(みんな兵隊になる)を目的に出された物であり、満20歳の男子が3年間徴兵されました。この徴兵令は免除規定が多く、徴兵されない人も多くいました。しかし、血税と言われたことで一般の人々が血を抜かれると勘違いし、血税一揆も起きました。同じ年に4つだった鎮台が6つに増設されました。

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