承久の乱
源実朝が暗殺されて源氏将軍が断絶して間も無く、後鳥羽上皇が北条義時追討を命じて承久の乱が勃発しました。一時は寝返りそうな御家人もいたものの、北条政子の演説などもあって、幕府側の勝利に終わりました。幕府が勝ったことで、公武二元支配から、武家優位の時代になったわけです。
この承久の乱の戦後処理がかなりややこしいので、今回はそれを整理していきます。
承久の乱の戦後処理
3上皇配流
幕府は、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇を流罪としました。それぞれの行き先を覚えましょう。
後鳥羽上皇→隠岐
土御門上皇→土佐
順徳上皇→佐渡
誰がどこに流されたのかまで試験で聞かれるので、しっかりと覚えておきましょう。
天皇の廃位
上皇方の敗北に伴って仲恭天皇は廃位されてしまいました。在位期間は70日余りしかありませんでした。次に天皇になったのは、後堀河天皇になります。
六波羅探題の設置
朝廷の監視を行うため、京都守護に代わって六波羅探題が設置されました。北条泰時と北条時房がその中心となります。
上皇方の所領の没収
上皇方についた武士の所領は悉く没収していきました。そして、そこを勝利に貢献した御家人に御恩として配りました。正確に表現すれば、その地域の地頭に任命しました。ここで設置された地頭を新補地頭と呼びます。新補率法に基づいて、段別5升の加徴米を徴収する権利が与えられました。
これにより、幕府の支配は西国までおよぶようになりました。
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