〈日本史〉共通テスト2022で出題された明治時代の日中関係を整理!

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日清修好条規(1871)

 1871年に日清修好条規を調印しました。明治維新になって、日本と清の間で初めて締結された条約になります。ここでのポイントは、日中関係は対等であったということです。共通テスト2022では、これが出題されましたね。

琉球漂流民殺害事件(1871)

 一方、日清間で一悶着もありました。台湾に漂着した琉球の漂流民が殺害されるという事件ですね。シンプルに琉球漂流民殺害事件と名前がついていますね。

 琉球の漂流民が殺されたことは何が問題だったのでしょうか。これはただの殺害事件ではないのです。実は当時の琉球は、日本と中国のどちらに帰属しているのかという問題がありました。日本にとってみれば「うちの国民に何してくれるんだ!!」っていう立場ですが、中国にとっては「うちの国内の殺人事件なので日本が口出すな!!」という立場を取ります。ここで沖縄の貴族についてもボチボチ問題になってきます。

 琉球については、1872年に琉球藩が設置され、1879年には沖縄県が設置されました。いわゆる琉球処分ですね。ちなみに、中国はこれに対して不満タラタラです。

台湾出兵(1874)

 琉球漂流民殺害事件への報復として、日本は台湾出兵を決定しました。派遣されたのは西郷従道ですね。のちに海軍大臣なども務めていく人物です。ちなみにこの台湾出兵に反対した木戸孝允は下野しました。結果イギリス人のウェードが調停したことで、まあ一応は解決しました。

壬午軍乱(1882)

 台湾出兵から数年経ったのち、段々と日清戦争に向けて日清関係は悪化していきます。まずは、朝鮮の内部では親日派と親清派で対立がありました。この対立が実際に火花を散らして壬午軍乱が起きたときに、清が鎮圧しました。これによって清の朝鮮における影響力が増加します。

甲申事変(1884)

 ここで再び、朝鮮で事件が起こります。日本が裏で支援しつつ親日派によるクーデタが起こったのです。これが甲申事変です。日本は一気に朝鮮を抑えようとしましたが、清国の反撃で失敗に終わりました。ここで清国と天津条約を締結し、以後に朝鮮へ出兵する際は通告するように取り決められます。

防穀令事件(1889)

 おまけですが、防穀令事件というものも紹介します。朝鮮政府が穀物の輸出を禁じ、日本がこれに対してケチをつけました。賠償請求までに発展しました。共通テスト2022では、この事件の並び替え問題が出題されたので、かなり難しかったと思います。

日清戦争(1894)

 1894年に甲午農民戦争が朝鮮で勃発しました。これが日清戦争のきっかけですよね。日清両国が出兵して、このまま戦争に突入します。

 結果は日本の勝利でしたね。下関条約で台湾・澎湖諸島・遼東半島が日本に割譲され、2億両の賠償金の支払いと、朝鮮における日本の優位が取り決められました。ちなみに、沖縄の日本帰属もここで決まりました。

中国分割

 日清戦争に敗北した清国は、これ以降列強によって分割されます。日本は福建省の不割譲を約束させました。

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