〈日本史〉歴史人物解説 桓武天皇

日本史

 本日より、歴史人物解説は平安時代編に突入します。まずは平安時代の”創始者”とも言える桓武天皇について解説していきます。

桓武天皇って誰?

 大雑把に言いましょう。平安京に遷都したことで知られていますが、他にも蝦夷の平定を行なったり、民衆の負担を軽減したりと、案外色々やっています。今回は一つ一つ詳しく見ていきましょう。

誕生から皇太子へ

 白壁王と高野新笠の子供として737年に誕生しました。マニアックな大学入試では、高野新笠もごく稀に問われますよ〜。白壁王は天武系ではなく天智系の皇族であったため、天皇になる可能性はほとんどありませんでした。だって壬申の乱の結果天武天皇が即位してますからね。ちなみに桓武天皇の即位前は、山部親王と言います(諱名ですけど)。

 しかし厄介なことが起こりました。それが称徳天皇の崩御です。ここで次の天皇として白羽の矢を建てられたのが、白壁王でした。770年に彼が即位して光仁天皇になります。ちなみに、ここで光仁天皇を擁立したのが藤原百川と藤原永手です。光仁天皇が即位すると、気になるのは次の天皇ですね。注目されたのは光仁天皇の子供の他戸親王でした。彼はお父さんが光仁天皇であり、お母さんは聖武天皇の娘の井戸内親王で、出自は完璧でした。ところが772年に井戸内親王が大逆の疑いをかけられて皇后を廃され、それに連座する形で他戸親王も皇太子を廃されました。

 よって次の皇太子を探されますが、ここで山部親王が擁立されます。ここまでの一連の騒動については、さまざまな説がありますが、私は藤原式家の黒幕説を推しています。

桓武天皇の即位

 781年に桓武天皇が即位しました。父の光仁天皇から譲位された形になります。皇太子は弟の早良親王としました。

 まずはじめに手掛けたのは長岡京への遷都です。遷都を提言したのは、あの宇佐八幡神託事件で知られる和気清麻呂になります。道鏡に左遷されましたが、この頃には復帰していました。遷都の目的は、奈良時代の弊害であった「仏教の政治介入」を除外したかったというのが一番です。道鏡がメチャクチャやったりありましたので、ああいったことを防ぎたかったんですね。

 長岡京遷都自体は784年に実現したのですが、造長岡宮使であった藤原種継が暗殺されるという事件が起こります。この暗殺に早良親王が関わったとされ、早良親王は流罪となりました。後任の皇太子には後の平城天皇がつきましたが、厄介だったのはこの後の長岡京ですよ。これ以降、”不吉なこと”が色々と起こります。災害とか皇族の死とかですね。

平安京遷都

 危機を感じた桓武天皇は再び遷都することを考えます。次は平安京です。これが実現したのは794年になります。そして一部期間を除いて、日本の都は1868年まで京都だったわけですね。通算首都期間のトップは今でも京都です。

蝦夷平定

 桓武天皇は朝廷の言うことを聞かない蝦夷の平定にも動きます。まず派遣したのは紀古佐美です。しかし蝦夷の族長の阿弖流為に撃退されます。

 次に派遣されたのは、坂上田村麻呂です。797年に彼を征夷大将軍に任命して、阿弖流為を降伏させました。これにてほとんど蝦夷平定は終わりました。

 嵯峨天皇の時代には文室綿麻呂がとどめを差しましたが、この話はまた別の機会に…

民衆の負担軽減

 桓武天皇は民衆の負担軽減も行います。まず、班田を6年に1回から12年に1回に切り替えます。あとは雑徭の日数半減、公出挙の利子率を5割から3割に引き下げます。

 また、その他の政治改革も色々やりました。まずは勘解由使を設置します。これは国司交代の際に不正がないかをチェックする役職です。また、軍団を廃止して健児の制を始めます。これまでは青年男子全員に兵役がありましたが、郡司の子弟などに絞って軍役を課していくことになりました。

徳政相論

 桓武天皇は晩年、藤原緒嗣と菅野真道を招いて徳政相論を実施しました。これは、桓武天皇の二大事業である軍事と造作(蝦夷平定と平安京造営)を実施すべきかどうかを話し合わせたものです。

 藤原緒嗣は民衆の負担を拡大させているとして中止を提言し、菅野真道は継続を提案しました。結果としては、緒嗣の意見が採用されて軍事と造作は中止されました。

崩御

 806年に桓武天皇は亡くなりました。次に天皇になったのは平城天皇です。これ以降の話は、また次回していきたいと思います。

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