〈世界史〉オスマン帝国による2回のウィーン包囲を解説

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 今回はウィーン包囲を整理していきたいと思います。

第一次ウィーン包囲

 第一次ウィーン包囲は1529年に起こりました。時のスルタンはスレイマン1世です。まさにオスマン帝国の全盛期ですよね。スレイマン1世は、当時のハンガリーを押さえたかったのですが、ハプスブルク家のトップであるカール5世の邪魔が入って不調でした。イラッときたスレイマン1世は、ハプスブルク家の拠点のウィーンに焦点を当てます。

 そしてハプスブルク家と対立していたブルボン家がこれに協力しました。当時はフランソワ1世ですね。しかも1494〜1559年はイタリア戦争でハプスブルク家と戦争していたので、オスマン帝国と利害が一致します。

 ということでオスマン帝国がウィーンなどに攻撃を仕掛け、ハンガリーの制圧には成功します。一方のウィーン側は立て篭もりを選択します。オスマン帝国側が攻撃をしている最中、オーストリアには奇跡の雪が降りました。雪に慣れないオスマン帝国側はこれで撤退します。

 結果として、ウィーン包囲自体は失敗に終わりましたが、この事件がヨーロッパに与えた影響は凄まじいものでした。なんたってウィーンを陥落直前まで追い込んだわけですからね。ヨーロッパ側としては、びっくりですよ。そして、ハンガリーの一部はオスマン帝国が領有することになります。さらに10後の1538年にはプレヴェザの海戦でスペインなどをオスマン帝国が撃破しています。ヨーロッパからすれば、オスマン帝国は最も大きな脅威となりました。

第二次ウィーン包囲

 第二次ウィーン包囲は1683年に起こりました。ただしこちらのウィーン包囲はボロボロです。オスマン帝国がだいぶ弱った時のウィーン包囲です。残念ながら失敗に終わりました。

 結果として、1699年のカルロヴィッツ条約で、ハンガリーとトランシルヴァニアを失って解決しました。

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