こんにちは、今回は古代チベットの歴史(漢代〜清代)について解説していきたいと思います。
氐・羌
漢代から魏晋南北朝時代前期にかけては、鮮卑系の民族である氐や羌が勢力を持っていました。五胡十六国時代を構成する、五胡の中にこの2勢力も含まれてますしね。
吐谷渾
続いて4世紀初めには、吐谷渾が成立しました。これは鮮卑系の民族による王朝です。西域と中国との中継貿易を担ったことで、繁栄して行きました。
吐蕃
続いては7世紀前半ですね。唐と同じくらいの時期に、吐蕃が成立しました。建国者はソンツェン=ガンポ、首都はラサです。ちなみに、唐から文成公主が降嫁してきました。
唐に対しては、冊封関係は成立せず、程よい関係でそれなりの立場を維持していました。ところが唐で安史の乱が起こると、これに便乗して長安を一時的に占領してしまいます。まあその後は和解して、唐蕃会盟碑というものを建立しています。
また、このころになってチベット仏教が成立したとも言われています。これは大乗仏教がチベット固有の宗教と結びついて成立したものです。
最終的に842年で、吐蕃は滅亡してしまいます。この後にチベットをしっかり支配する者はなかなか現れませんでした。
元
吐蕃の滅亡後にチベットをしっかり支配する者は現れませんでしたが、モンゴルがここを統一したことは知られています。モンゴルは、チベット仏教の影響力を利用して、チベット地域を支配しようとしました。
明・清
また、明の時代以降については、黄帽派という宗派が出てくるようになりました。これはツォンカパが考案したもので、旧来のチベット仏教が緩くなっていたから、きつくし直すための改革だと思ってくれればいいと思います。清の時代になると、チベットも中国の一部として取り入れられるようになります。
しかし清王朝にとっては、最大限チベット仏教を利用したいわけです。なぜでしょう? チベット人の気持ちになってみてください、清の皇帝から「よしー、全員働け」って言われるのと、チベット仏教の指導者に「将来救われるために、今働きましょう」と言われるの、どっちの方がやる気起きると思いますか? もちろん、自分が信じる宗教の指導者に言われた方がやる気出ますよね。なので清の皇帝としては、チベット仏教の指導者を自分の言うことを聞くロボットにすれば勝ちなのです。
長々と書きましたが、簡単にまとめましょう。清の皇帝は、ダライ=ラマの称号をチベット仏教の指導者に認めて、その代わりに清のモンゴル支配を手伝わせるという作戦を取りました。チベットの人やモンゴルの人に人気の宗教を取り入れることに成功したわけですね。この作戦は、元でも取られたのでそちらも知っておいてください。また、清王朝におけるチベット支配は、理藩院という部署が担当していました。
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