〈世界史〉ペルシア戦争について徹底解説

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 今回は、古代最大の戦争であるペルシア戦争について細かい解説をしていきます。

背景

 まず、ペルシア戦争B.C.500年〜B.C.449年にかけて起こった、ギリシアvsアケメネス朝ペルシアの対立であることは知ってますよね? 約50年にわたって戦争が続きました。じゃあなんでこんな対立が起こったんだと思いますか?

 理由の1つとしては地中海の商業圏をめぐる対立です。当時の地中海を支配していたのはアケメネス朝保護下のフェニキア人がいましたが、アテネもそれに負けていなかったんですよ。そこでどちらが商業の覇権を握るのかという対立がまず1つありました。

 あともう一つは、単純にアケメネス朝がギリシアを手に入れて、自身の領土を拡大したいという狙いもありました。当時のトップはダレイオス1世。言わずもがな、アケメネス朝の全盛期ですから。

開戦

 紀元前500年、イオニア人の植民市ミレトスで、アケメネス朝のダレイオス1世に対する大規模な反乱が起こりました。これにアテネは支援したんですよ。これでペルシア軍がお怒りになって一気に攻めてきたわけです。

 注意しておいて欲しいことは、背景と発端は別物だということです。あくまでずっと対立していた一方で実際に戦争になることはなかったが、イオニア植民市の反乱をきっかけとして一気に開戦しました。

第1回

 ペルシア戦争は50年間続きましたが、24時間365日休まずに戦争しているわけではありません。ちゃんと休んでいます。なので大きなペルシア戦争の中にも、激しい期間とおとなしい期間があるんですね。その激しい期間がペルシア戦争では3回ありました。

 まずはその第1回を見ていきましょう。ダレイオス1世の指揮するペルシア軍は、ギリシア北部のトラキアを制圧し、絶好調な戦いぶりを見せます。そりゃそうだよ。かのアケメネス朝ですから、ちっこいギリシアが勝てるわけないのよ。

 ところがギリシアも不利な状況ではありますが、負けませんでした。なんとこのタイミングで神風が吹くんですね。暴風雨がギリシアを襲い、ペルシアの船は難破してしまったため、やむなくペルシア軍は撤退となります。まあ、引き分けですね。

第2回

 さあ引き分けに終わった第1回、ダレイオス1世はこのまま諦めたでしょうか。もちろん諦めませんよ。第2回の遠征が始まります。

 ところが今回はペルシア不調です。B.C.490年のマラトンの戦いで、アテネのプラタイアイ連合軍にペルシアは敗れてしまいます。この時のアテネの指揮官はミルティアデスです。この名前、早稲田大学とかだと意地悪で聞いてきたりしますので、余裕のある方は覚えましょう。

第3回

 さあペルシア戦争、ラストの大盛り上がりがまいりました。ここでは、大熱戦です。まず、ペルシアのトップのダレイオス1世は亡くなってしまったため、ペルシア側のトップはクセルクセス1世に代わります。

 まずは、B.C.480年のテルモピレーの戦いです。ここでは、スパルタ軍が大活躍します。少数のスパルタ軍と大多数のペルシア軍が大衝突します。かのリュクルゴス制で鍛えられたスパルタ軍は勝てましたか? 流石に負けます。レオニダス王が率いたスパルタ軍は降伏することなく全滅します。しかし、これに勇気をもらったギリシア人が多かったはずです。

 同年に行われたサラミスの海戦では、将軍テミストクレス率いるアテネ海軍が出陣します。そして、ついにペルシア海軍を撃破しました。このサラミスの海戦では大きな歴史的意義があります。これまで参政権を与えられなかったアテネの無産市民が三段櫂船の漕ぎ手として参戦したことで、政治参加が認められるようになりました。

 続いて翌年のプラタイアイの戦いです。これはスパルタのパウサニアスの活躍によってペルシア軍を撃破し、再びギリシア側が勝利します。

 さあラストはミカレ岬の戦い。ここでもペルシア軍を撃破し、いよいよペルシアはエーゲ海から撤退します。

終結

 B.C.479年のミカレ岬の戦い後、ペルシアの侵攻は一旦途切れました。しかし、ギリシア側としてはもう一度攻めてくる可能性は危惧しています。そこで、B.C.478年にアテネ中心のデロス同盟が結ばれました。これはペルシア再攻に備えて団結するためのものです。

 ところがここでアテネのペリクレスが”やらかす”んですね。デロス同盟のために各ポリスから資金を集めたのですが、集めた資金を管理していたのはアテネです。ペリクレスはここで集めた資金を運用してパルテノン神殿を建てます。こりゃあ、資金を持っていかれた他のポリスからしたら腹立つよね。てことで、これを機にポリス間の対立につながっていきます。

 また、スパルタはこういったデロス同盟に対抗してペロポネソス同盟を結びます。これ以降、デロス同盟とペロポネソス同盟の対立、もっと言えばアテネとスパルタの対立が鮮明になってくるわけです。

 ちなみに、これだけ大掛かりな備えをしたにもかかわらず、ペルシアはもうギリシアに攻めてきませんでした。そして、B.C.449年にカリアスの和約を結び、ペルシア戦争は終結しました。

ペルシア戦争の歴史的意義

 最後のペルシア戦争の歴史的意義についてお話しします。

無産市民の参戦によってアテネ民主政が確立した

 一つ目は、無産市民が戦争(特にサラミスの海戦)に参加したことで、無産市民が参政権を獲得し。アテネ民主政がついに完成したことです。

 元々無産市民に参政権はありませんでした。理由は戦争に参加しないからです。戦争に参加しない者には参政権を認めないというのが、当時の常識でした。武器を購入できない無産市民にとって参政権への道はないものだと考えられましたが、サラミスの海戦では三段櫂船の漕ぎ手という重要な仕事ができたことで、一気に参政権獲得に繋がりました。こうして、ドラコンの成文法から始まったアテネ民主政はついにペルシア戦争で完成したわけです。

ギリシアにおけるアテネの指導権確立

 ギリシアにおいて以後引っ張っていくポリスは誰か、もちろんアテネです。現在のギリシアの首都もアテネです。ペルシア戦争を機にアテネがギリシアのリーダーになっていくようになりました。もちろんスパルタはこれに対抗しますけどね。

東地中海交易におけるギリシア優位の確立

 東地中海においてはギリシアが覇権を握ることになりました。もちろんフェニキア人も健在ではありますが、やはりペルシアの影響が薄れてしまったこともあるんでしょうね。ギリシアの覇権の時代は今後しばらく続きます。

まとめ

 今回はペルシア戦争についてまとめました。まあ入試頻出単元ですよね。四択問題・正誤問題・記述問題・論述問題、あらゆる分野で出題されます。絶対に押さえておきましょう。

 

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