〈日本史〉歴史人物解説 藤原不比等

日本史

お久しぶりです。約1カ月半ぶりにシリーズ再開していきます。今回から奈良時代編となります。藤原不比等について見ていきましょう。

藤原不比等とは

 まずは藤原さんって誰? っていう話からしていきましょう。これについては中大兄皇子の時代を思い出してください。「藤原」って人出てきましたよね。そうです、中臣鎌足改め藤原鎌足です。天智天皇から大職冠と藤原姓を与えられたってやつですね。この鎌足の子が不比等になります。

 この藤原氏の子孫が平安時代に大きな力を持っていくことは言うまでもありませんが、実は奈良時代から着々と力を伸ばしていくのです。

文武天皇時代

 父の鎌足は11歳の時に亡くなってしまい、その後に起こった壬申の乱では特に関与することはありませんでした。だってまだ子供だもん。

 不比等が中央政界に大きく登場するのは、文武天皇を擁立したときです。そして701年には大宝律令制定に携わっています。誰と作ったでしょう? 刑部親王ですね! この人は天武天皇の子です。

 その後、不比等は元明天皇・元正天皇の時代に権力を持っていきます。

元明天皇時代

 元明天皇時代の政策を見ていきます。

 まず第一に、708年に和同開珎を鋳造しました。ところがなかなか流通しないので、711年に蓄銭叙位令を出しますが効果はイマイチでしたね。

 そしてなんといっても平城京に遷都したことですね。710年に遷都し、784年まで日本の都となりました。平城京は右京・左京・外京で構成されているっていうことが重要ですね。

 またこの時代には、『古事記』『風土記』の編纂が行われました。一応確認、『古事記』については、稗田阿礼の暗唱に合わせて太安万侶が編纂しました。『風土記』については、肥前・豊後・播磨・出雲・常陸のものが残されています。

 あとは、出羽国・大隅国を設置するなど、支配領域を拡大していきました。

元正天皇時代

 元正天皇の時代には、”不比等最大の業績”があります。養老律令の編纂ですね。養老律令の制定は718年です。不比等が絡んだ大宝律令については、あくまでトップは刑部親王です。不比等としては、「藤原氏が作ったんだ!」っていうことを示したかったんですね。ですが、実際に施行されるのは757年です。藤原仲麻呂が政権を握っているときですね。

 それともう一つ、『日本書紀』の編纂もこの時代です。編纂したのは舎人親王ですね。ちなみに『日本書紀』については編年体で書かれています。『古事記』は紀伝体なので気を付けてください。

子孫たち

 鎌足に続いて、不比等も中央政界で大きな力を持ちました。そしてこの子孫たちが、この後の時代で力を持っていきます。

 今日は1人だけ覚えてください、宮子っていう人ですね。知ってますか? 文武天皇の夫人です。まあこれはそこまで重要ではないんですが、重要なのはその先です。文武天皇と宮子の間に子供が生まれ、そしてこれが後に天皇になります聖武天皇ですね。そして、聖武天皇にも娘を嫁がせます。これが光明子っていう人で、後に光明皇后になります。

 そして息子たちについても政界で大きな力をもっていきます。これについては次回、見ていきましょう。

まとめ

 今回から、五部作で奈良時代を見ていきます。次回は『長屋王・藤原四子編』です。これで奈良時代の政治史は網羅できるので、ぜひ続けて見てください。

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