〈日本史〉歴史人物解説 天武・持統天皇 

日本史

 久しぶりのシリーズですが、いつもと違って月曜配信です。当分変則的なスケジュールになりますがご了承ください。

 今週は、2人の人物を一気に見ていきましょう。これまでの聖徳太子編・中大兄皇子編を見ていない人は、そちらを見てからぜひ見てください。今回が、飛鳥時代の最終章です。

 それでは始めて行きましょう。

壬申の乱

 前回のラストで、天智天皇が亡くなりました。その際に後継者を息子の大友皇子と指名しました。ところが弟の大海人皇子が黙っていないんです。天智天皇の跡継ぎ争いとして、壬申の乱が始まりました。この結果は大海人皇子が勝利し、大友皇子は自殺してしまいます。

 この事件についての重要な事項が1つあります。乙巳の変以降、天皇中心の政治体制を目指してきたわけですが、やっぱり力のある豪族たちが政治を動かしてたんですよね。それを一変させたのが壬申の乱なんですよ。天智天皇が後継に指名した大友皇子を推すのは中央豪族です。その大友皇子が負けてしまったわけですから、そこについていた大豪族が没落します。結果的に大海人皇子が天武天皇として即位し、中央集権国家の形成が一気に進んでいくことになります。

 またもう一つ。これはおそらく試験に出ないことですが、壬申の乱って日本史上非常に珍しく、”反乱を起こした側”が勝利した戦いです。古代最大の内乱と言われる壬申の乱ですが、それ以降の日本史にとってもレアなものなんですね!

中央集権国家の形成

 さて、壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮に遷都し、天武天皇として即位します。そして中央集権国家体制を整えていきます

皇親政治

 天武天皇は、皇族を重用しました。主に子供たちですね。大豪族が没落した一方で、皇族が中央政治を動かすようになっていきます

天皇の地位

 この頃から、「天皇」の称号が使われるようになります。『倭王武編』で扱いましたが、当時は「大王」と呼ばれていましたね。そして天皇は神として見られるようになります。「大君は神にしませば~」っていう和歌が万葉集に何首かあります。

 ちなみに「日本」という国号もこの頃から使われたそうです。

豪族の再編

 天武天皇は豪族中心の政治から皇族中心の政治に移行しようとします。675年には部曲が廃止され、豪族の私有地がなくなります。

 684年には八色の姓という新たな身分制度が成立します。さあ、上から順番に言えますか?

八色の姓  真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置

 真人が皇族で、朝臣以下に豪族が入ります。

 また、685年には冠位制度を新しくします。ここでは、豪族は天皇を支える官僚に位置付けられます。聖徳太子が冠位十二階を作ったことは以前お伝えしましたが、それ以降3回くらい新しい冠位制度が作られています。すごいどうでもいいこと言いますが、天武天皇の冠位制度は48階あり、飛鳥時代の冠位制度の中では最も多いですね。

飛鳥浄御原令

 681年に飛鳥浄御原令の編纂を始めます。ただし天武天皇の存命中には完成せず、施行されるのは次の天皇です。

国史の編纂

 タイトルに「国史の編纂」と書いてありますが、正確には「国史の暗記」です。稗田阿礼という人物に『旧辞』『帝紀』を暗唱させます。『旧辞』は古代の神話、『帝紀』は天皇の皇位継承を中心とする古代の伝承や歴史をまとめたものです。

 この暗唱が後の『古事記』に繋がります。『古事記』については、新たに始まる『文化史解説』の中で説明しましょう! 天平文化なので、だいぶ先かな…

貨幣の鋳造

 天武天皇は富本銭という貨幣を鋳造します。これが日本最古の貨幣ですね。その後、8世紀に入って和同開珎が作られ、皇朝十二銭に繋がっていきます。

その他

 この段階で都は飛鳥浄御原宮にありますが、天武天皇の時代から新たな都の造営が始まります。完成するのは次の天皇の時代です。

 また薬師寺を創建したのは天武天皇です。皇后の病気平癒を目的に作ったそうですよ。実際、天武天皇の方が先に死んじゃうけど…

天武天皇の死後

 天武天皇が亡くなると、次の天皇が誰になるのかという話になります。天武天皇は子供がいっぱいいたのですが、皇后がちょっと暴れてしまうんですね。天武天皇と皇后の間の子に草壁皇子という人がいました。皇后的にはこの人に継がせたかったのですが、天武天皇が外に作った子供に大津皇子がおり、この人は草壁皇子に匹敵する力を持っていたと言われています。

 ところが大津皇子は謀反の疑いで捕らえられ、その後自殺してしまいます。この騒動に実は皇后が絡んでいたようです。

 ところが草壁皇子も皇太子のまま、3年後に亡くなってしまいます。困ったのは次の天皇を誰にするかですね。両方とも死んじゃったんですもん。真っ先に候補に挙がるのは草壁皇子の子供、軽皇子です。しかし軽皇子は当時7歳で、さすがに厳しい… 「こうなったら私が行くわ」って名乗り出たのが天武天皇の皇后です。690年に持統天皇として即位します。結果的に、686~689年は称制という形式になります。称制の話は『中大兄皇子編』でしましたが、天皇に即位しないまま政務を執ることですね。

持統天皇の時代

飛鳥浄御原令の施行

 天武天皇の時代に始まった飛鳥浄御原令の編纂がついに終わりました。そして、689年に施行します。

庚寅年籍

 690年には飛鳥浄御原令に基づき、庚寅年籍を作成します。天智天皇の時代に作った、庚午年籍のちょうど20年後です。「庚」の字が共通していますが、十干は10年単位のものだからですね!

藤原京

 こちらも天武天皇の時代から造営されているものです。694年に藤原京に遷都します。こちらの決まり文句は、”日本初の都城制の都”ですね。条坊制を採用しており、道が碁盤の目のようになっています。また、耳成山・香久山・畝傍山大和三山に囲まれているのも特徴です。ちなみに、藤原京遷都のちょうど100年後に平安京遷都です。全くの偶然ですが、覚えやすいので覚えておきましょう。

その後

 持統天皇は、697年に軽皇子に皇位を譲ります。先ほど出てきた草壁皇子の子供です。持統天皇からみたら孫ですね。軽皇子は文武天皇として即位しました。

 701年になると、大宝律令が完成します。これをもって長年進められてきた天皇中心の国家体制が、一応は完成します。大宝律令の編纂は、刑部親王藤原不比等が担当します。

 藤原不比等は、『中大兄皇子編』で登場した中臣鎌足の子です。彼の子孫が、今後の日本史に多大な影響を及ぼします。それは今後のシリーズで見ていきましょう。刑部親王は天武天皇の子です。天武の子だけ、最後に整理しておきましょうか。

大津皇子・・・漢詩で活躍

草壁皇子・・・子供が文武天皇として即位

刑部親王・・・大宝律令の編纂

舎人親王・・・『日本書紀』の編纂

高市皇子・・・太政大臣

 大津皇子・舎人親王については『文化史解説』のシリーズで触れていきます。とにかく皇親政治の影響で、皇子たちが大活躍したということは頭に入れておいてください。

まとめ

 飛鳥時代の歴史ついて『聖徳太子編』『中大兄皇子編』『天武・持統天皇編』の3回に分けて解説してきました。飛鳥時代の基本の流れは抑えられると思います。

 次回以降は奈良時代に突入します。『不比等編』『長屋王・藤原四子編』『橘諸兄・聖武天皇編』『仲麻呂編』『道鏡・百川編』の5部作を予定しています。

 また、日本史学習者の皆さん向けの新企画『文化史解説』のシリーズ化が決まりました。世界史はギリシア文化から始まりましたが、日本史では飛鳥文化から全部解説していきます。お楽しみに! ただし配信は不定期です。

次回の不比等編はこちら

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