〈日本史〉歴史人物解説 倭王武

日本史

 さて、今週の歴史人物シリーズ第2弾です。倭王武について、見ていきましょう。

倭の五王

 まず、倭の五王について簡単に説明しましょう。讃・珍・済・興・武ですね。この表記は、中国の『宋書』に記述されています。当時の中国情勢は後程お話ししますね。

 この5人が何をしたかは後で話すとして、この5人の関係性については皆さん知ってますか? 結構マニアックですが、よく見ていきましょう。

 まず、讃と珍は兄弟です。「讃死して弟珍立つ」と記されています。そして、済と興は親子で、済と武は親子で、興と武は兄弟です。珍と済の関係はわかっていません。つまり、讃・珍グループと済・興・武グループに分けられます。これを利用すると、『日本書紀』の言う天皇との比定ができるようになります。

 お手元に天皇系図がある方はそちらで見てください。父・兄弟が全員天皇になっているところって、允恭・安康・雄略天皇しかいませんよね? これを見れば、以下のことがわかるでしょう。

済…允恭天皇  興…安康天皇  武…雄略天皇

 この説は時代的にも朝鮮の史書から見ても、大きな矛盾がなく学者の意見もほぼ一致しているそうです。

 一方、讃・珍はどうでしょうか? これがそう単純ではないんです。まずそもそも、讃・珍の系統が途切れたことで、まったく違う血筋の済が支配者になったとする説があります。皇統断絶説ですね。次に、皇統断絶していないとしても、宋書の兄弟という記述が間違えているという説もあるそうです。その場合は、応神・仁徳コンビ説、履中・反正コンビ説など様々な説があがっていて、簡単には比定できないそうです。これについては、今後の研究を待つしかないですね。

中国の動き

 倭の五王といえば、中国の宋に遣使を送ったことが有名ですよね。ではなぜ遣使を送ったのでしょうか? この歴史背景に注目してみましょう。

 中国は、当時南北朝時代と言われた時代でした。これは、日本の南北朝時代みたいな軽い騒ぎではないですよ。あれは、天皇が2人いた時代であくまで国内は1つに保たれていました。中国の場合は、北と南で全く別の国で、別の民族が治めていたのです。

北朝・・・五胡十六国⇒北魏⇒東魏・西魏⇒北斉・北周

南朝・・・東晋⇒宋⇒斉⇒梁⇒陳

 日本史選択の人は、王朝名まで覚える必要はありません。しかしですね、注目してほしいことがいくつかあります。まずは、卑弥呼を思い出してください。卑弥呼は三国時代の魏に遣いを送りましたよね。あれは、華北(簡単に言えば北朝側)です。その後、壱与は晋に遣いを送ったという話をしました。これ以降、「空白の4世紀」になるわけです。その後、倭の五王は宋に遣使を送りました。これは南朝です。気づかないうちに北から南に移ってますね。

 これ浮気に見えるかもしれませんが、一応つながりはあります。壱与は晋に遣いを送ったとお話ししました。晋は西晋と呼ばれていますが、これが三国時代で分裂した中国を統一していたんです。ところが内乱や外敵の侵入で滅亡してしまいます。そんな中で、晋の一族が南の方に逃げて、南京で王朝を建てました。これを東晋といい、これ以降が南北朝時代と言われます。

 倭の五王の1人である讃は、東晋に遣いを送りました。まあかつて西晋に遣使を送ったわけですので、その流れで送ったのかな? その真意は分かりませんが… とにかくその後、東晋が滅亡し、宋が建国されました。日本は同じ場所に遣使を送ってますが、違う王朝になってます。結果的に日本の遣使の行き先が北から南に移ってしまったんですね。

 このあたり中国史ですので、世界史選択の人は余裕だと思います。日本史の方も関連付けに覚えておくといいかもしれませんね。

 では、倭の五王はなぜ宋に遣使を送ったのでしょうか。その理由は、朝鮮半島の支配権を獲得するためです。日本は4世紀後半に朝鮮侵略を試みますが、高句麗に阻止されます。なんとか朝鮮の支配的立場を獲得したかったのです。その理由? 朝鮮には鉄資源があったからっていうのが一番かな!

倭王武

 それでは、倭王武について見ていきましょう。この人物は、478年(順帝の昇明二年)に遣いを送りました。その際には「七国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と自称しました。でもね、宋の皇帝から任命されたのは「六国諸軍事、安東大将軍、倭王」に任命されました。1国減らされたんですね。これは、日本よりも宋との関係が深かった百済に対する宋の遠慮みたいなもんですね。ちなみに、順帝を最後に宋は滅亡しました。その後は斉・梁・陳と短命な王朝が続きます。

 また、倭王武については、雄略天皇以外にもう一つ名前があります。ワカタケル大王ですね。この人物の名前が記された鉄剣が稲荷山古墳(埼玉)と江田船山古墳(熊本)から出てきています。つまり、この時代には九州から関東にかけてヤマト政権の支配が及んでいたんですね。稲作が伝わってから、およそ800年程度で国内統一。これは、異常な早さです。日本の誇りですよ。

まとめ

 さて、今週の歴史人物についてはこんな感じで自由にやっていこうという私の気持ちは感じ取れたでしょうか? 役に立つことを載せながら、雑談を織り交ぜて楽しく話していきたいと思います。気軽に見てください。

 次回は聖徳太子について解説します。

コメント

  1. a.d. says:

    数3と数Bのテストの解答っていつくれるんですか?

    • History-teller says:

      すんません、でもあのテストWriter1のものですよ! よく私が打ち込みを担当していると分かりましたねぇ
      しかも両方とも内容は数Ⅲですよ!
      とりあえず、急ぎます…

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