〈日本史〉歴史人物解説 藤原良房

日本史

 今回は人臣初の摂政として知られる、藤原良房を深堀していこうと思います。

藤原良房とは

 藤原良房は、藤原冬嗣の息子になります。冬嗣の次に権力を握ったのが彼になります。また、養子には藤原基経がいます。もともとは彼の兄弟の子供(要は”おい”)でしたが、養子にしました。あと他に兄弟といえば、仁明天皇の妻の藤原順子がいます。彼女は父の冬嗣の策略で、仁明天皇と結婚することになりました。

承和の変

 833年に仁明天皇が即位すると、嵯峨上皇の支援を受けて急激に昇進しました。ただし、この時一つ問題がありました。仁明天皇の次に天皇になるはずの人物が淳和天皇の子供の恒貞親王でした。ややこしいので一旦整理しましょう。

嵯峨 ー 仁明 ー 道康親王 ー 惟仁親王

淳和 ー 恒貞親王

 まだ生まれていない人も含めた系図を書いてみました。まず嵯峨天皇と淳和天皇が兄弟であることはみなさんご存知ですよね。平城天皇も含めて、3人とも桓武天皇の子供です。で、嵯峨天皇の次に淳和天皇が即位しましたが、その次は仁明天皇になりました。問題はその後です。仁明天皇と淳和天皇、どちらの子供が継ぐのかですよ。ここで、一応淳和天皇の子供が皇太子になっていました。それが恒貞親王です。ただし、淳和系には藤原氏の息をかけるのがかなり難しいという事情がありました。一方の嵯峨系については、藤原氏の息が大きくかかっています。仁明天皇とは冬嗣の娘が結婚しており、道康親王とは良房の娘が結婚し、その間にものちに子供ができました。藤原氏からしたらそっちの方がいいですよね。

 そこで藤原良房は、842年に大きく動きます。恒貞親王が廃太子され、道康親王が皇太子になりました。また、恒貞親王の側近であった橘逸勢伴健岑をそれぞれ流罪にしてしまいます。逸勢は伊豆、健岑は隠岐に流されました。848年には、藤原良房が右大臣となり、ほぼ独裁体制を確立しました。この一連の流れを承和の変といいます。

権力の上昇

 850年、道康親王はついに文徳天皇として即位しました。これで良房は、道康親王のお義父さんになりました。また、文徳天皇の妻で藤原良房の娘であった藤原明子は、子供を産みました。これが惟仁親王です。

 惟仁親王は、このまま皇太子となりました。また、857年にはついに太政大臣に就任しました。ちなみに太政大臣が設置されるのは、道鏡以来80年ぶりです。

人臣初の摂政へ

 858年に、文徳天皇が崩御しました。次に即位したのは、9歳の惟仁親王です。彼が清和天皇として即位しました。これで良房は外祖父です。また、清和天皇は幼い頃から良房の家で育てられたので、彼への信頼は厚く、良房は事実上の摂政として職務を行いました。

 ところが864年に、藤原良房は一度病気を患いました。休んでいる間に権力を握ったのが伴善男でした。彼は、ここぞとばかりに良房を出し抜こうとしていました。まあ良房本人は、865年に政治に復帰できるほどに回復しましたが、政情はやや不安定でした。

 そのような中、866年に応天門が焼失する事件(応天門の変)が起こります。当時大納言であった伴善男は、左大臣源信を犯人扱いしました。この調査に乗り出したのが藤原良房です。結果、源信は無罪であるとわかり、逆に伴善男が犯人として告発されてしまい、彼はそのまま失脚しました。この時、紀豊城ら紀氏も一緒に左遷されました。また、この調査の過程で清和天皇は良房に摂政宣下の詔を下し、良房は正式に摂政に就任しました。これが人臣(一般人)初の摂政が誕生する瞬間でした。

 良房はその後872年まで生き続け、69歳で亡くなりました。

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