今回は前回に続き、明治維新後の産業発展のための整備と明治初期の外交について解説していきます。
産業の整備
みなさんは世界で輸出入されるものの多くがどうやって運搬されているか知っていますか?
答えは船です。現代でも輸出入には船が使われているのですから、明治時代も輸出するためには船による海運が必要不可欠でした。
海運については、三菱を創業した岩崎弥太郎が有名だと思います。岩崎弥太郎は土佐藩の土佐商会を譲り受け、九十九商会と改名しました。その後、三菱紹介と改名しました。三菱商会は1874年の台湾出兵時に政府から軍事輸送の仕事を得たことで勢力を拡大し、1875年に郵便汽船三菱会社に社名を変え西南戦争でも軍事輸送で大変活躍しました。この活躍の裏には、当時内務卿であった大久保利通、大蔵卿大隈重信の庇護がありました。しかし、1878年に紀尾井坂の変で大久保利通が殺害され、明治14年の政変で大隈重信が下野しました。その後、1885年に三井系の共同運輸会社と合併し、日本郵船会社を設立しました。
貨幣制度
江戸時代までの貨幣制度からの脱却のために、新貨条例を出し、円・銭・厘の十進法による金本位制を確立させました。1872年に渋沢栄一の建議で国立銀行条例が出されました。これはアメリカのナショナルバンク制度に似せた民間銀行を設立させようとしたものでした。しかしながら、民間の力に任せた政策であり、民間の銀行の資本力で金との交換ができる兌換紙幣を発行させようとしました。しかしながら、正貨である金と銀行券との兌換義務がついていたため、設立はたったの4行にとどまりました。そのため、1876年に国立銀行条例を改正し、発行銀行券との兌換義務を無くしました。そうしたところ、第153銀行にまで民間の銀行が急増しました。みなさんの地元にも番号が名前となっている銀行があるかもしれません、それはこの時に生まれた銀行であると思います。
明治初期の外交
岩倉遣外使節団とは、欧米諸国との予備交渉と視察が目的の、岩倉具視が全権大使として組織された使節団である。結果としては、視察としては一定の効果を出したが、予備交渉の方は大失敗に終わりました。
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