五箇条の御誓文
今回から明治維新について解説していきます。
明治維新が起きたことによって多くの政治の仕組みが変わりました。
まずは、将軍を中心とした政治体制から天皇を中心とした政治体制に代わりました。
明治維新の始まりとして、1868年3月14日に五箇条の御誓文を発しました。この五箇条の御誓文は国内向けではなく、国外向けに出されたものです。そのため、内容は“開かれた日本”を意識している内容になっています。
内容は
・世論の尊重
・天皇親政
・開国和親
など
この五箇条の御誓文は、由利公正が起草し、福岡孝弟が修正、さらに木戸孝允が加筆修正しました。
五榜の掲示
五箇条の御誓文が出た翌日3月15日に五榜の掲示が出されました。
これは五箇条の御誓文とは違い、国内向けで高札で出されました。そのため、江戸幕府がこれまで出してきた内容と同じようなものとなっています。
内容は
・徒党・強訴・逃散の禁止
・キリスト教の禁止
・儒教の教えを正す
・万国公法の履行
・脱藩浮浪の禁止
の五つです。
政体書
1868年、明治政府は政体書を制作しました。
内容は政府の内容を表したものとなっています。
まず、中央集権制度として
・三職筆頭の総裁の廃止。
・地方は府藩県三治制
三権分立(形式上の)
・議政官と下局(立法機関)
・行政官(行政機関)
・刑法官(司法機関)
下局はのちに公議所→集議院となった。
高級官吏の4年ごとの互選制
政体書はアメリカ合衆国憲法を模倣したものであり、福岡孝弟と副島種臣が起草しました。
東京へ
1869年に東京へ遷都を行いました。理由として中央集権国家を作るというのが主な目的です。
版籍奉還
1868年に府藩県三治制を行い、1869年1月に薩摩、長州、土佐、肥前の4藩が版籍奉還をしました。その後6月に全藩に版籍奉還命令を出しました。これによって、藩主は世襲制の知藩事になりました。しかし知藩事になったからといって、藩主として行ってきた仕事は変わらずそのまま藩政にあたりました。
廃藩置県
1871年の2月に、廃藩置県を行なった際に、藩の反発によって衝突が起きた際のために薩摩、長州、土佐から御親兵を集めました。その後7月に、廃藩置県の詔を出して中央集権体制を確立しました。
廃藩置県で知藩事達の反発が予想されましたが、これまで藩が抱えていた借金などを全て明治新政府が肩代わりする上に、自分たちの家禄と華族も身分を保障されたことによって、自分たちは廃藩置県によってマイナスの影響をほとんど受けないことからあまり反発はしませんでした。
終わりに
今回は明治維新の最初の出来事について解説しました。次回以降は政治体制の改革や軍隊の整備、身分制度について解説していく予定です。
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