〈世界史〉皇帝から見る清国の歴史 前編(ヌルハチ〜乾隆帝)

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 清国の歴史を皇帝基準で整理していこうと思います。今回は前編なので、ヌルハチから乾隆帝までです。

ヌルハチ

 初代はヌルハチですね。彼が1616年に女身族を統一し、後金を成立させました。そしてサルフの戦いで明を破りました。

ホンタイジ

 2代目はホンタイジになります。彼が1635年にチャハルを征服し、藩部を統治するための理藩院を設置しました。1636年には国号を後金から清に改称しました。さらに朝鮮を服属させることにも成功します。

順治帝

 3代目は順治帝です。お気づきだと思いますが、ここで中国風の名前に変わりましたね? 清が中国を継いでいくということがこの辺から読み取れると思います。

 そんな順治帝ですが、1644年の李自成の乱によって明が滅んだ矢先、呉三桂を味方につけた上で李自成の軍を撃破します。これで清の中国支配が実現します。以後の都は北京に置かれます。

康熙帝

 続いては康熙帝です。この辺から、清の全盛期が始まったと言われています。さぞ調子良かったのだろう…って思いきや、意外と初っ端はトラブル続きです。

 まず即位早々、鄭成功が台湾を占拠するという事件が起こります。オランダ勢力を駆逐し、鄭氏政権の樹立を掲げました。漢民族にとって、あくまで清は”侵略者”ですからね。それへの抵抗運動が起こったわけです。この事態に対して、康熙帝は遷界令を交付して沿岸部の国民を内陸部に強制移住させます。鄭氏政権への支援を防ぐのが狙いです。ただしこれ以降もしばらく鄭氏政権が続き、降伏したのは1683年です。ちなみにこの翌年に遷界令も廃止されました。

 一方の国内では、三藩の乱が起こります。元々、清の中国統一に貢献した呉三桂ら3名は、江南に自身の支配地を与えられ、その辺りをそれぞれが支配していました。これを三藩と言います。ところがこの3名が清に対して反乱を起こしたのです。結果どうなったか、康熙帝側が勝利しました。これで三藩は無くなったも同然ですから、地方分権的な制度がなくなって皇帝権力が強化されました。

 さらに外交問題も1つ抱えます。典礼問題ってやつですね。当時、ヨーロッパからキリスト教布教を目的とした宣教師がいっぱい来ていたのですが、孔子様を敬う派と敬わなくて良い派で揉めていました。そこで康熙帝は、敬う派であったイエズス会のみ布教を許可して、他の教会による布教を禁止してしまいました。

 まあトラブルはこのくらいですね、あとは、1689年にロシアのピョートル1世とネルチンスク条約を結んだことは重要事項です。また、地丁銀制もこの人が始めたと考えていいです。

雍正帝

 お次は雍正帝です。彼はついにキリスト教の伝道を全面的に禁止します。また、1727年にロシアとキャフタ条約を締結しました。さらに、軍事・行政機関である軍機処を設置しました。これはウイグル地域への侵略に備えたものです。

乾隆帝

 さあ次は乾隆帝です。まずは西欧との貿易を広州だけに絞り、公行に貿易独占権を与えます。まあざっくり言えば鎖国政策ですね。

 さらにジュンガルや回部の侵略に成功します。このあたりは、後に新疆と呼ばれるようになります。これ以外の戦争にも多数勝利し、清の最大版図を実現しました。

 また、晩年にはマカートニーが通商の交渉に来ました。まあ、これは拒否しましたけどね。

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