奈良時代前半に政権を握った人に注目してみましょう。藤原不比等の次に政権を握った長屋王と、その次の藤原四子を解説していきます。不比等について知りたい人は、以下の記事をご覧ください。
長屋王
長屋王政権について見ていきましょう。「まず長屋王って誰?」って話からしておきますね。彼は天武天皇の孫にあたります。父親は高市皇子っていう人です。あと妻は、吉備内親王って人ですので良かったら知っておいてください。
長屋王は不比等の死後に、右大臣になります。この時代の天皇は元正天皇ですので、彼女の下で政治を行っていきます。2つ押さえておいてください。
722年 百万町歩開墾計画
723年 三世一身法
律令制度の維持を図るため、この頃増えてきた浮浪・逃亡を防止する政策を展開していきます。
長屋王の変
724年に聖武天皇が即位しました。さあ、問題! 聖武天皇の奥さんといえば?
光明子ですね。もちろん他にもいっぱいいるけど。光明子って誰だか分かりますね? 不比等の娘です。藤原不比等は娘の宮子を文武天皇に嫁がせ、そこで生まれた首皇子(後の聖武天皇)に、娘の光明子を嫁がせました。想像するとすごい光景ですよね(笑) 聖武天皇からすると、母親と妻が姉妹なんですよ~
話を戻しましょう。実はこの当時、いろいろあって藤原氏と長屋王で対立が起こっていました。果たして皇族でない母を持つ聖武天皇を即位させていいのかっていう対立とかですね。決め手になったのは、宮子さんの呼び方をめぐる対立です。そしてゴタゴタの末に、長屋王と藤原四子(不比等の子供たち)の間に対立が起こっていました。
そして729年。藤原四子は長屋王に謀反の疑いをかけ、自害に追い込みます。その結果として、光明子が光明皇后となり、人臣初の皇后となりました。そして、政権は藤原四子が握っていくことになります。
藤原四子
では藤原四子を見ていきましょう。まず藤原四子って誰なのかって話をしますね。簡単に言えば、不比等の子供たちです。つまり光明子とは兄妹になりますね。お母さんは違うけど。
武智麻呂(南家) ・ 房前(北家) ・ 宇合(式家) ・ 麻呂(京家)
はい、全部覚えてください。覚え方は特にありません(笑) ひたすら頑張りましょう。
藤原四子については、長屋王の変以降に権力を握っていくようになります。さあ、ここから藤原氏の栄華が始まっていく~ って思いきや、737年で途切れてしまいます。
737年に天然痘が流行し、四兄弟が短期間で相次いで亡くなってしまいます。まあ多分、誰かがステイホームせずに夜の街感染でもしちゃったんですかね(笑) 兄弟相互の見舞いによって全員感染したと思われるそうです。要は、濃厚接触者になったんでしょうね。クラスターかな? いつの時代も感染症って怖いですね~ ちなみに当時の人は、長屋王に無実の罪を着せたために、祟りであると考えたらしいですよ!
まとめ
っていうわけで若くして亡くなってしまった藤原四子の次は誰が政権を持つのか。そして、みんなが知っている聖武天皇についても次回詳しく見ていきましょう。
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