〈世界史〉イタリア統一の流れを徹底整理

世界史の記事のサムネイル 世界史

 今回はイタリア統一(通称:リソルジメント)の流れについて徹底的に解説していきます。並べ替え問題としてもよく出てくるところなので、じっくり説明していきましょう。

ウィーン体制下のイタリア

 ウィーン体制におけるイタリアの状況から整理して行きましょう。まずロンバルディアヴェネツィアについてはオーストリア領になっていました。一方の中北部イタリアは3つの公国が分立しており、それぞれブルボン家やハプスブルク家に従属していました。さらに中部にはローマ教皇領がありました。これが邪魔なのよね。一方の南イタリアとシチリア島には、両シチリア王国がありました。こちらはブルボン朝ですね。最北部とサルデーニャ島にはサルデーニャ王国がありました。もうバラバラですね。このような状況で統一しようという集団が出てきました。

初期の統一活動

 最初に動いたのは、カルボナリという秘密結社です。1820年にナポリで、1821年にはピエモンテで革命を起こしました。目的は「憲法と自由」ですね。ただし、残念ながらオーストリアのメッテルニヒが介入したことで弾圧されてしまいます。

 それから10年、1831年に再びカルボナリが帰ってきました。時代は七月革命後の混乱期です。フランスの影響を受けたカルボナリが再度中部イタリアで蜂起します。ところが再びメッテルニヒの介入によって失敗に終わります。この現状を見た弁護士のマッツィーニは、秘密結社では活動に限界があることを痛感しました。そこで作られたのが「青年イタリア」という組織です。この組織が共和主義や民族主義を掲げて活動を開始しました。”共和主義”というキーワードは意外と大事ですよ

 青年イタリア自体は懸命に活動をしました。ただし少し急ぎすぎたようです。蜂起したのは良いものの、準備不足によって失敗してしまいました。ただ、完全に無駄だったのかといえばそうでもないと考えられています。青年イタリアの活動によって、イタリア国民の多くが「イタリア統一を目指す意志」を持つようになったそうです。

二月革命を受けての運動

 1848年、フランスでは二月革命が起こりました。この余波がイタリア統一運動にまで及びました。動いたのはサルデーニャ王国でした。当時の国王はカルロ=アルベルトです。イタリア各地で独立運動が起きたのを見た国王は、「今なら独立できる」と考えオーストリアに宣戦しました。ただし残念ながらこちらは負けてしまいました。

 一方1849年には、ローマ教皇領でローマ共和国の建国が宣言されました。中心となったのはマッツィーニです。ただし、こちらはフランス軍の介入によって失敗してしまいます。

サルデーニャ王国による統一

 この後統一の中心となったのはサルデーニャ王国です。ただしオーストリア戦での敗北によってカルロ=アルベルト国王は退位してしまいました。次に国王に即位したのはヴィットーリオ=エマヌエーレ2世です。長いけど、頑張って覚えましょう。この国王、首相にカヴールを任命しました。このカヴールがイタリア統一に大きく動いて行きました。

 まずはオーストリアから独立してイタリアを統一するには大きな国と仲良くする必要がありました。するといいタイミングで良いニュースが入ってきたんですね。それが1853年のクリミア戦争です。1855年になって英仏の支援のためにサルデーニャ兵を送りました。これで英仏を味方につけます。1858年にはフランスとプロンビエール密約を結び、対オーストリア戦争の際の支援を取り付けました。当時のフランスはナポレオン3世の時代です。ナポレオン3世は何でこの密約に応じたか分かりますか? サヴォイアとニースのフランスへの割譲を約束してくれたからです。

 さあフランスの支援を取り付けて準備万端ですね! ということで1859年にイタリア統一戦争が勃発します。対戦相手は、もちろんオーストリアです。ところが、サルデーニャ王国によって予定外の事態が起こりました。ナポレオン3世がイタリアの強大化を恐れてオーストリアとの単独講和を結んでしまいました。結局サルデーニャ王国はロンバルディアを得るにとどまってしまいました。

 ただし翌年の1860年には中部イタリアの併合に成功します。これでサヴォイアとニースはフランスに割譲しました。ナポレオン3世からしたらラッキーですね。これで残るは南イタリア・教皇領・ヴェネツィア・トリエステ・南チロルです。南イタリアは両シチリア王国がおり、教皇領にはがっつりローマ教皇がいます。ヴェネツィア・トリエステ・南チロルについてはオーストリアが持ってます。

イタリア統一の完成

 南イタリアを制圧したのはサルデーニャ王国ではありません。あの「青年イタリア」でした。ガリバルディという人物が千人隊(赤シャツ隊)と呼ばれる軍隊を引き連れてシチリアと南イタリアを占領しました。ただし気をつけてください。あくまで青年イタリアは共和主義を掲げた組織でした。ガリバルディだって共和派です。一方のサルデーニャはちゃんと王政なので、目指すのは立憲君主制ですよ。ここで対立が起きたっておかしくなかったわけです。

 しかしガリバルディは占領地をサルデーニャ国王に献上しました。サルデーニャと対決している間に諸外国に攻められる可能性を恐れたのでしょうか、イタリアの統一を実現させることを選んだのです。そして1861年にはイタリア王国が成立し、初代国王にはヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が即位しました。

統一後のイタリア

 イタリアが統一されたと言ってもまだ”回収”しきれていない土地があります。統一直後はその併合のチャンスを狙っていくわけです。

 まず1866年にはプロイセン=オーストリア戦争が起こり、この結果オーストリアが負けました。ここでヴェネツィアを併合してしまいます。また1870年にはプロイセン=フランス戦争が起こり、これに乗じて教皇領を併合してしまいます。ただしローマ教皇はヴァチカンに残って対立を続けます。

 ただし統一直後には結局併合できなかった地域もあります。それがトリエステ南チロルといった「未回収のイタリア」と呼ばれる地域です。結局「未回収のイタリア」問題の解決は第一次世界大戦までもつれ込み、教皇との仲直りはムッソリーニの時代まで延びてしまいました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました