〈日本史〉歴史人物解説 菅原道真

日本史

菅原道真とは

 菅原道真とは、「学問の神様」として知られるかつての政治家ですね。有能な政治家かつ学者であることで有名ですが、最後は大宰府に左遷され怨霊になったとされていますね。

 今回は、そんな道真の壮絶な人生を追っていきたいと思います。

出世への道

 いきなり”壮絶な人生を追う”なんてカッコつけてしまいましたが、実は道真の生い立ちは確かな資料がなくわからない部分も多いらしいです。まあお父さんが菅原さんで、お母さんが伴さんだってことはわかっているようですけどね。幼少の頃より漢詩に触れていたことで、862年に18歳で文章生となり、その5年後には位階を手に入れました。とにかく頭が良いことで有名で、藤原基経も菅原道真の才能を評価していたようです。877年には文章博士となります。

 888年に阿衡の紛議が起こりました。覚えてますか? 宇多天皇から最も信頼を置かれていた橘広相が起草した詔勅の中で、「阿衡」に任ずるとされた藤原基経がケチをつけたという事件です。宇多天皇によって訂正はされましたが、藤原基経は橘広相の処罰まで主張していました。菅原道真はこの時、そんな主張をする基経を諌めるような文書を出しました。まあ結果は変わらず橘広相はクビになってしまいましたけどね。

宇多天皇への接近

 阿衡事件を経て宇多天皇は藤原氏に対する信頼を失いつつありました。その一方で、天皇が信頼していた橘広相が亡くなってしまいました。さあこんな時、宇多天皇は誰を選んだでしょう。そうです。ここで菅原道真を大抜擢しました。蔵人頭になったのち、様々な要職を務め上げていきました。

 894年には遣唐大使に任命されました。ところが菅原道真は唐が混乱していることを理由に派遣の中止を検討するように建議しました。結果的に遣唐使は送られませんでしたね

 そして897年には右近衛大将になりました。のちに源頼朝も任ぜられる役職ですね。

醍醐天皇の時代

 右近衛大将に就任した1ヶ月後には醍醐天皇が即位しました。宇多天皇は寛平御遺戒で、醍醐天皇に対して藤原時平と菅原道真を重用するように言い残しました。醍醐天皇はこれを聞き入れたため、道真は引き続き重用されました。899年には右大臣にまで昇進し、時平は左大臣になりました。これで時平と道真のツートップ体制が完成したわけです。しかし長くは続きませんでした。

 901年に藤原時平の讒言に遭ったため、大宰権帥に左遷されてしまいました。宇多天皇は止めようとしたようですがうまくいきませんでした。これを昌泰の変といいます。まあ今言ったのは通説の1つであり、中には菅原道真が反感を買っていた貴族層による陰謀などといった説もあるので、ここはひとえには言えませんね。よかったら調べてみてください〜。

 何はともあれ、道真は左遷となり、大宰府で謹慎生活を送っていました。給料はカットされ、移動費も自費だったそうです。やがて貧乏になっていきました。そりゃあ死んじゃうよね。左遷からわずか2年、903年に亡くなってしまいました。

 ところがその後、なぜか朝廷の重要人物が次々と亡くなってしまいました。例えば藤原時平は909年に39歳の若さで亡くなっています。さらに930年には清涼殿で落雷の被害があり、ここで多くの死傷者が出ました。醍醐天皇もこの直後に体調が悪くなり、3ヶ月後に亡くなったそうです。これら全て、菅原道真の怨霊ではないかと囁かれました。

道真の作品など

 道真は文化史でも出てくるので押さえておいてください。まず『菅家文草』には道真の詩が収められています。『類聚国史』には編者としてガッツリ参加しました。また、六国史の1つ『日本三代実録』の編集にも参加しています。まあこの辺まで覚えておいてくれればいいでしょう。

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