今回は藤原百川について深掘りしていきたいと思います。奈良時代編の最終回になります。
藤原百川とは
藤原百川は、藤原宇合の八男として誕生しました。藤原式家の人ですね。そんな彼ですが、道鏡の後に権力を握りました。いったいどのように握ったのか解説していきましょう。
出世
当時の藤原氏は式家の時代です。そんな式家の子ですから、昇進は早かったです。また、宇佐八幡信託事件の際に道鏡の皇位継承阻止に動いたり、この事件で流罪になった和気清麻呂への支援を密かに続けるなど政局の読む力が”ずば抜けて”いました。
光仁天皇の擁立
時は770年、称徳天皇が後継を決めないまま亡くなってしまいました。ここで道鏡も下野薬師寺に飛ばされました。以降藤原百川は、北家の藤原永手と協力して天智天皇の孫を天皇に立てようとします。これがのちの光仁天皇です。ここでのやり方はかなり強引です。称徳天皇の遺言を偽造するなどして、なんとか光仁天皇を即位させました。
光仁天皇にとってみれば藤原百川に対しては大きく信頼をおいており、百川はこれ以降にいくつかの要職を務めていきました。
ただし光仁天皇は即位の時点で62歳。現在までの天皇で即位年齢が最も高いです。当時からすれば62歳なんておじいちゃんですよ。そうなってくると気になるのはその後継です。当時の皇后は称徳天皇の妹で、その間に一人の子供がいました。普通に考えればこの子に後を継がせたいよね。しかし藤原百川は天智天皇直系で光仁天皇の子でもある山部親王を天皇にしたかったのです。そこで皇后に冤罪をなすりつけて廃し、連座という形で天皇と皇后の間の子も皇太子を廃されました。そして藤原百川肝入りで頭のキレそうな山部親王が皇太子となりました。この山部親王がのちに桓武天皇となって様々な政治改革に取り組んでいきます。そうです、もうお気づきですね。桓武天皇の才能を最初に見抜いたのは藤原百川だったのです。
残念ながら百川は779年に亡くなってしまいました。二年後には光仁天皇も亡くなり(正確には生前退位)、次に天皇になったのが百川の擁立した桓武天皇でした。いよいよ平安時代に突入していくわけです。
まとめ
今回は藤原百川についてまとめました。まあ内容は薄いですね。あんまり入試に出るところないんだもん。大事なことだけしっかり覚えておきましょう。次回は桓武天皇です。いよいよ平安時代となります。
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