今回は、覚えておきたい遣隋使・遣唐使をまとめます!
600年 第1回遣隋使
これは、日本側の記録には残っていません。『隋書』にのみ記述があります。
607年 第2回遣隋使
主要メンバー 小野妹子
最も有名な遣隋使ですね。聖徳太子が対等な外交関係を主張するために送った遣隋使になります。国書をみた隋の皇帝の煬帝は大激怒しますが、高句麗との関係悪化もあり、裴世清を帰国に伴わせるなど比較的丁寧な対応をとりました。
608年 第3回遣隋使
主要メンバー 小野妹子・高向玄理・南淵請安・旻
今度は日本まで送ってくれた裴世清を送り返すための遣隋使が送られました。もう何してるんだかって感じですけど(笑)
ここでは留学生や留学僧が送られました。重要人物は3人いますので、この人たちは全員覚えておきましょう。
614年 第4回遣隋使
主要メンバー 犬上御田鍬
これが事実上最後の遣隋使となります。隋は618年に滅んでしまうので、日本からすれば知らない間に王朝が変わってたんでしょうね(笑)
630年 第1回遣唐使
主要メンバー 犬上御田鍬
ということで、記念すべき第1回遣唐使で派遣されたのは、遣隋使経験者の犬上御田鍬でした。まあ、遣隋使としての経験が買われたのでしょう。
702年 第8回遣唐使
主要メンバー 粟田真人・山上憶良
702年に、およそ30年ぶりの遣唐使が送られました。ここで送られたのが粟田真人という人物です。また『貧窮問答歌』で有名な山上憶良もこのタイミングで送られています。結構偉い人だったんですね(笑)
717年 第9回遣唐使
主要メンバー 藤原宇合・玄昉・吉備真備・阿倍仲麻呂・井真成
717年にも遣唐使が派遣されました。ここでは、藤原宇合を副使として派遣されました。この時に玄昉が学問僧として、阿部仲麻呂・井真成・吉備真備も留学生として派遣されています。
玄昉と吉備真備については、のちに橘諸兄に重用されて政権を担うことになります。阿倍仲麻呂については唐で科挙を受け合格し玄宗皇帝に気に入られて、さまざまな役職を唐で歴任しました。ただし、日本への帰国は果たせませんでした。井真成については、西安で墓誌が見つかっていることで知られています。
752年 第12回遣唐使
主要メンバー 藤原清河・吉備真備
藤原清河を大使として、遣唐使が派遣されました。このタイミングで吉備真備が2度目の遣唐使になっています。これは橘諸兄政権の弱体化によって、左遷されたと考えて良いでしょう。
藤原清河については、新羅の使者と現地で席次をめぐって揉め、挙句帰国できなかった人物です。阿倍仲麻呂とともに一度帰国を試みますが、海難事故が起こって失敗してしまいます。755年の安史の乱の際には、日本側から迎えが来ましたが、唐の皇帝が航海の危険を理由に帰国を認めませんでした。
804年 第18回遣唐使
主要メンバー 橘逸勢・最澄・空海
橘逸勢は、留学生として遣唐使に参加しました。また、この時に最澄と空海もわたっており、この帰国後にみなさんご存知の天台宗と真言宗を始めました。
838年 第19回遣唐使
主要メンバー 小野篁・円仁
これが事実上最後の遣唐使になります。派遣されたのは小野篁ですね。小野岑守の子供になります。
また、このタイミングで円仁も入唐しています。
894年 第20回遣唐使(発遣中止)
主要メンバー 菅原道真
これが最後に計画された遣唐使です。菅原道真は遣唐大使に任ぜられましたが、唐の衰退と航海の危険を理由に遣唐使の廃止を提案し、実際に廃止されました。
遣唐使の廃止以降、中国との国家的なつながりはしばらく無くなるのでした。
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