嵯峨天皇
嵯峨天皇は桓武天皇の息子になります。平城天皇や淳和天皇は兄弟ですね。そんな嵯峨天皇、いろいろやったので、この場で1つずつ整理していきましょう。
即位
809年に平城天皇から譲位の形で、天皇に即位します。この時の平城天皇は病気を持っていたため、それに伴う譲位でした。
薬子の変
ところがどっこい、厄介な事件が起こります。810年に藤原薬子と仲成が、平城天皇に「もう一回天皇やろうぜ〜」って悪知恵を教え込みます。この2人は平城天皇に接近して、権力を得ようとしていました。そして、平城天皇側は平城京に朝廷を設置すると主張し、一時的に二所朝廷と呼ばれる状況になりました。
この事件において、嵯峨天皇側についたのは坂野田村麻呂や北家の藤原冬嗣です。平城天皇が東国へ行って挙兵することを企むと、坂上田村麻呂が先回りしてそれを阻止しました。藤原冬嗣については、平城京に行って上皇側を牽制しました。
結果、藤原仲成は射殺され、藤原薬子も自殺し、平城上皇は出家する形で、この事件は収束しました。これ以降は平和な時代が続き、弘仁・貞観文化が花開くようになります。ちなみに、平安時代で死刑という刑罰が執行されたのはすごく稀なことです。薬子の変以後は、保元の乱まで死罪が適用されませんでした。
令外官の設置
新たに蔵人所を設置し、蔵人頭に藤原冬嗣と巨勢野足を任命しました。彼らが嵯峨天皇の両腕となって、さまざまな政策を展開していくわけです。
また、都での警察職務を担当する役職として、検非違使を設置しました。
蝦夷平定
811年には文室綿麻呂を東北地方に派遣し、これをもって蝦夷平定が完了しました。
格式の制定
嵯峨天皇の時代には、弘仁格式が選定されました。以後、貞観・延喜でも格式が作られ、これらと共に三代格式と呼ばれるようになります。
公営田の設置
小野岑守の献言によって、太宰府管内に公営田を設置しました。これが嵯峨天皇の時代だということは、なんとなく知っておいてください。
文化事業
嵯峨天皇の時代には唐風化がキーワードになります。
まずは、勅撰漢詩文集が作られました。『凌雲集』と『文華秀麗集』になります。前者は小野岑守、後者は藤原冬嗣が中心となって作りました。
また、嵯峨天皇自体、漢字を書くのがうまかったので「三筆」と称されています。嵯峨天皇の他に、橘逸勢と空海もこれに数えられますね。
さらに、密教とも絡んでいきます。空海に対しては東寺をプレゼントします。さらに最澄に対しては、大乗戒壇の設立を認めました。このように密教は応援するという姿勢を見せます。
退位
823年に弟の淳和天皇に譲位して、自分の息子を皇太子にすることに成功します。嵯峨天皇は本来第2子で、長男は平城天皇でしたが、自分の息子を天皇にしたかったようですね! そのための生前退位であったと考えられています。
その後、息子は実際に仁明天皇として即位しました。嵯峨天皇については842年に崩御しました。それ以後は、藤原北家の時代へと進んでいくわけです。
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