今回は正誤問題の定番である、蝦夷征討を見ていきましょう。
東北の情勢
「4世紀の途中でヤマト政権が日本を統一して、大王を中心とする中央集権体制が~」といった定番の文言がありますよね。これ実は、現在の日本全体ではございません。北海道と琉球は完全に話が別となっています。それだけでなく、本州内でも九州南部と東北地方についてはヤマト政権の支配が及んでいませんでした。このように、東北地域のヤマト政権の支配に従わない人々のことを蝦夷と言います。もちろん最終的にはヤマト政権(ていうか朝廷)の支配下に入るわけですので、そこまでの過程を一気に整理したいと思います。
孝徳天皇の時代
大化の改新が始まった後に、蝦夷征討がついに始まります。まずは、647年と648年に新潟県へ渟足柵・磐舟柵が設置されました。ここが、蝦夷征討の拠点となります。
斉明天皇の時代
この時代には、阿倍比羅夫を東北に派遣し、蝦夷征討を進めました。
元明天皇の時代
708年に出羽柵を設置し、新たな蝦夷征討の拠点となりました。そして、712年には出羽国が設置されました
元明天皇以後の奈良時代
724年には大野東人が派遣され、多賀城を設置しました。そしてここには、陸奥国府と鎮守府が設置されました。新たな蝦夷征討拠点ができたわけですね。
また、奈良時代には桃生城や雄勝城なども設置されました。
ところが桓武天皇の即位直前である780年、伊治呰麻呂の乱がおこりました。蝦夷側も黙ってはいなかったのです。そして、多賀城は焼かれてしまいました。
桓武天皇の時代
桓武天皇の時代になると、蝦夷征討は本格化します。まずは、788年に紀古佐美を派遣し、蝦夷征討を行わせました。ところがこの時は、蝦夷の族長である阿弖流為が撃退します。
次に派遣されたのは791年の大伴弟麻呂です。彼は初めて征夷大将軍という役職に任じられ、蝦夷征討に向かいました。
さらに797年には坂上田村麻呂が征夷大将軍として派遣されました。そして、802年には胆沢城、803年には志波城を設置しました。胆沢城には鎮守府を移転しています。こうした朝廷側の動きに、さすがの阿弖流為も降伏しました。
嵯峨天皇の時代
811年、蝦夷に追い打ちをかけるように今度は文室綿麻呂が派遣され、ついに蝦夷は平定されました。
その後の蝦夷
その後服属した蝦夷は、俘囚として朝廷の支配に組み込まれていきました。ところが878年には俘囚が元慶の乱を起こして、再び朝廷に反発しましたが、間もなくこちらも平定されていきます。そして、その後は、完全に日本の一部へとなっていくのでした。
まとめ
いかがだったでしょうか。こうしてまとめてみると、案外量も少なく覚えるのにも苦労しないんじゃないですかね。並べ替え問題と正誤問題ではよく問われるので、ごちゃごちゃにしないように気を付けて覚えましょう。
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