参議院選挙間近ということで、政党の歴史を解説する企画をやっています。今回は日本共産党です。
日本共産党とは
日本共産党は、現存する100年を超える最古の政党です。委員長は田村智子ですね。
明治時代の社会主義運動
職工義友会・労働組合期成会
明治期には社会運動が始まってきました。全ての原点は、高野房太郎が1897年に東京で結成した職工義友会です。
これがすぐに労働組合期成会になります。中心となったのは、高野房太郎・片山潜です。『労働世界』という日本初の労働組合紙が発刊されました。
社会主義研究会
1898年にはさらに社会主義研究会が発足します。中心となったのは、安部磯雄・幸徳秋水・片山潜です。この段階では、あくまで社会主義を研究する「研究会」にすぎません。
社会主義協会
1900年には社会主義研究会が改組され、社会主義協会になります。本格的に社会主義を目指すようになったのです。メンバーは、安部磯雄・河上清・片山潜・堺利彦・幸徳秋水・木下尚江・西川光二郎でした。ところが1900年には治安警察法が制定され、この弾圧を受けるようにもなりました。
社会民主党
さらに1901年には社会民主党が結成されました。社会主義を目指す初めての政党です。メンバーは、安部磯雄・河上清・片山潜・幸徳秋水・木下尚江・西川光二郎です。社会主義協会の主要メンバーのほとんどが参加しました。ところが、治安警察法により、即座に結社禁止となりました。そのため、社会主義協会が引き続き活動の中心となります。
平民社
さらに、幸徳秋水と堺利彦が1903年に平民社を結成しました。日露戦争への反戦論や社会主義の紹介を行なっていくようになります。機関紙は『平民新聞』ですね。
社会主義協会と平民社が、社会主義運動の中心となっていきました。ところが、社会主義協会は1904年に結社禁止となりました。
日本社会党
1906年には、再び国政政党が成立します。それが日本社会党です。中心となったのは、堺利彦・幸徳秋水・片山潜・西川光二郎でした。機関誌は平民社と同様の『平民新聞』です。
ところがここは党内で対立が起きます。「直接行動派」と「議会政策派」で激しく対立したのです。直接行動を訴える「直接行動派」は幸徳秋水、議会中心の運動を訴える「議会政策派」は片山潜が中心となります。
1907年にはこういった路線対立を危険視した政府によって、治安警察法で結社禁止を命じられてしまいました。
赤旗事件・大逆事件
1908年には赤旗事件が起こります。無政府主義者のデモ行進に警察が介入して乱闘騒ぎとなってしまったのです。ここで、大杉栄・堺利彦・山川均らが逮捕されてしまいました。これを機に、西園寺内閣は倒れてしまいました。
1910年にはさらなる追い討ちがありました。それが大逆事件です。明治天皇暗殺計画を理由に、幸徳秋水・管野スガら社会主義者26名が起訴され、12名が死刑となりました。これ以降は社会主義「冬の時代」となります。
大正時代
大正期は、普通選挙運動・婦人参政権を求める大正デモクラシー運動が盛んでした。平塚らいてう・市川房枝らの婦人参政権獲得運動、吉野作造の黎明会など、挙げるべきものは多数ありますが、ここでは社会主義関連のものを紹介します。
日本社会主義同盟
1920年に、日本社会主義同盟が結成されます。冬の時代が始まって10年、再始動ですね。中心メンバーは、山川均・堺利彦・大杉栄です。ここでは大同団結のような形で結成されました。「無政府主義」を唱える大杉栄、「共産主義」を唱える山川均・堺利彦が一緒になったのです。ところがこちらは、翌年に結社禁止となります。
赤瀾会
1921年には、伊藤野枝・山川菊江らによって赤瀾会が結成されました。これは女性の社会主義団体ですね。
日本共産党の成立
そして、1922年には、日本共産党が非合法で結成されました。日本社会主義同盟の共産主義者が中心となってできました。個人名を挙げると、堺利彦・山川均ですね。この日本共産党が、現在まで続いている、あの共産党です。2025年で、結党103周年です。こんな長い政党、他にありません。
日本共産党
昭和戦前まで
日本共産党は1922年に結成されましたね。世界的な社会主義の連絡機関であるコミンテルンの日本支部として成立しています。ただし、先述した通り、この共産党は「非合法」です。政府からは弾圧の嵐でした。
1923年には第一次共産党事件で主要党員が一斉検挙され、党は1924年に一旦解散となりました。
1926年には共産党が再建されます。中心になったのは、佐野学・鍋山貞親・徳田球一などです。初代創設者の堺利彦・山川均は距離を置くようになりました。
共産党勢力が強まってきたことから、1928年の三・一五事件、1929年の四・一六事件で相次いで中心メンバーが検挙されてしまい、壊滅状態に追い込まれました。
獄中では、1933年に佐野学や鍋山貞親が転向声明を出し、これ以降は大量転向が止まらず、仲間がどんどん減っていってしまいました。
戦後、共産党の合法化
時代は飛んで1945年になります。GHQの指令により、共産党員が解放されました。そして、治安維持法も廃止されたことから、日本共産党も再建されました。
記念すべき選挙第一弾を見てみましょう。
1946年4月総選挙(定数464名)
日本自由党 140議席
日本進歩党 94議席
日本社会党 92議席
日本協同党 14議席
日本共産党 5議席
初めて5議席を獲得しました。その後も共産党は大きく成長していき、1947年には伊井弥四郎率いる二・一ゼネストが企図されましたが、これはGHQの命令で中止となります。
1949年総選挙では、共産党は大躍進しました。
1949年1月総選挙(定数466名)
民主自由党 264議席
民主党 69議席
日本社会党 48議席
日本共産党 35議席
国民協同党 14議席
時代は、片山・芦田内閣の失敗後です。日本社会党・民主党・国民協同党が国民の信頼を失ってしまったことで、日本共産党の大躍進に繋がりました。
分裂
ところが1950年頃になると日本共産党に逆境が訪れます。世界は冷戦の時代です。終戦直後の「なんでも認めよう、軍国主義者は追放」という理論から、「共産主義は危ない、追放者の復帰を」という方向性に変わってきました。
当時の共産党は武装闘争路線です。テロ活動も積極的に行われており、危険視されるのは仕方のない状況でした。1952年には破壊活動防止法が制定され、公安調査庁の監視対象に入ってしまいます。
さらにややこしいことに、同時期には、共産党内でも「派閥対立」が起こり、国際派や所感派などに分裂しました。
分裂が落ち着いたのは1955年です。奇しくも、自民党・日本社会党の統一と同じタイミングですね。ここで武装闘争路線を放棄することになり、野坂参三を第一書記として再統一されました。また、さらに後には宮本顕治を中心として、自主独立路線が採られるようになります。今までは「コミンテルン」「コミンフォルム」といった世界の指導に従っていましたが、以後は独自路線を進んでいきます。
他党との連携を模索するも、独自の路線へ
その後、公明党との連携を模索するも、これはなかなかうまくいきません。
次は日本社会党との連携を模索します。いわゆる「社共共闘」ですね。ただし、社会党内は「社公民路線」という日本社会党・公明党・民社党を重視する声が多く、なかなか共産党と組もうとは考えられませんでした。
非自民・非共産連立政権
突然ですが、ここで1993年の衆議院議員総選挙の結果をご覧ください。
1993年7月総選挙(定数511名)
自由民主党 223議席
日本社会党 70議席
新生党 55議席
公明党 51議席
日本新党 35議席
日本共産党 15議席
民社党 15議席
新党さきがけ 13議席
社会民主連合 4議席
お気づきですかね。自民党の議席が過半数を割ってしまいました。ここで新生党の小沢一郎が中心となって、自民党と共産党以外の全ての政党をまとめ上げ、細川護熙連立内閣を樹立することに成功しました。
日本共産党はこの政権に参加することはなく、自民党と共に野党となりました。まあここまでは良いとして、共産党にとっての大事件はその後です。
細川内閣は衆議院議員選挙における「小選挙区比例代表並立制」の導入を目指したのです。これまでは「大選挙区制」でしたが、ここで選挙制度が大きく変わったのです。これまでの大選挙区制は1選挙区から複数人を選ぶ仕組みであり、得票3〜5位でも十分当選圏内となるため、「小選挙区制」とは1選挙区から1人を選ぶ仕組みであり、大きな政党に有利とされています。そのため、小選挙区制に移行されると、日本共産党から当選者を出すのはなかなか難しいわけです。
それでも大きな政党の合意のもとで、小選挙区制は実現してしまいました。以降の日本共産党は、苦戦が予想されました。それでも、全ての小選挙区に候補者を擁立し、比例票を上積みすることで、どうにか乗り切ってきました。日本社会党が自民党と組んで方針転換した受け皿になったことも大きいとされています。
現在に至るまで
2000年までの共産党は長きにわたって不破哲三が率いてきました。2000年には志位和夫に代わります。
2009年には民主党政権が成立しますが、野党として是々非々の姿勢をとることになりました。普天間基地移設問題や消費税増税問題においては、激しく民主党政権を批判しました。
2012年に自公連立政権が復帰した後は、民主党政権から距離を置いていたこともあり、民主党や社民党などに比べて、選挙において比較的安定した議席を獲得できていました。
2021年の衆議院議員総選挙の際には、立憲民主党・社会民主党・れいわ新選組との選挙協力を行い、立憲民主党政権が成立した場合の「限定的な閣外協力」を行う方針が立てられました。しかし自民党などから「立憲共産党」と批判されたことで、立憲民主党・日本共産党ともに議席を減らしてしまいました。
立憲民主党は共産党との連携に慎重姿勢になったことから、その後の立憲・共産連携はあまり行われませんでした。その後の共産党は独自の戦いを見せるも、2023年4月の統一地方選挙ではかなり苦戦しました。
2024年には田村智子が委員長となり、党として初の女性代表が誕生しました。その後の衆議院選挙では、機関誌の『赤旗』が自民党の裏金問題を暴く成果を挙げたものの、なかなか共産党の得票には結び付かず、議席微減となりました。
今回の参議院議員選挙にあたって
今回の参議院議員選挙では、改選議席7を維持できるかどうかが鍵となります。埼玉・東京・京都の選挙区には現職がいるため、ここで再び勝つことができるのか、注目ですね!
〜参議院情勢〜
現有議席:11
(改選7、非改選4)
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