〈政治〉政党解説2024 自由民主党

公民

 2024衆院選特集シリーズです。今回は、自由民主党の歴史について解説していきます。

自由民主党とは

 言わずもがな、現在の日本の政権を担当する政党が自由民主党です。自民党と略されることも多いですね。9月末に総裁選が行われ、現在の総裁は石破茂です。その結党と長年の政権の歴史を見ていきましょう!

戦後初の総選挙

 戦前の日本には、立憲政友会と立憲民政党という2大政党がありました。五・一五事件まではたびたび政権交代が起こっており、その意味では今以上にしっかりしていたかもしれません。ところが大政翼賛会が成立したことで両党は解散となり吸収されてしまいました。

 時は1945年、日本は太平洋戦争に負け、新たな一歩を踏み出しました。政党が復活したのです。

 1946年4月に戦後初の総選挙が行われた際に、政党が復活したのです。旧立憲政友会系の日本自由党が140議席、旧立憲民政党系の日本進歩党が94議席を獲得し、第1党と第2党となります。しかし再建された日本社会党が92議席を獲得し、社会主義勢力も躍進しました。また、中道的な政党である日本協同党も14議席、合法政党となった日本共産党が5議席を獲得しました。また女性参政権が初めて認められ、39人の女性議員が誕生しました。

1946年4月総選挙(定数464名)

日本自由党 140議席
日本進歩党 94議席
日本社会党 92議席
日本協同党 14議席
日本共産党 5議席

 最終的に自由民主党に合流するのは、日本自由党と日本進歩党、日本協同党の3党なので、それぞれについてもう少し詳しく解説しますね!

日本自由党

 日本自由党は旧立憲政友会系の政党で、鳩山一郎を総裁とし、河野一郎や芦田均らが参加しました。反共をとなえつつも、「軍国主義からの脱却」「自由な経済活動促進」といった政策を唱えました。

 1946年4月総選挙においては、見事第一党になりました。これで鳩山一郎内閣が成立する…と思いきや、鳩山一郎は公職追放されてしまいました。そこで、吉田茂を後継の総裁に任命することで、第一次吉田茂内閣を成立させました。

日本進歩党

 日本進歩党は旧立憲民政党系の政党です。本当は立憲政友会と合同で政党を作る構想もあったようですが、鳩山一郎が総裁を務めることに難色を示し、戦前最後の民政党代表であった町田忠治を党首に日本進歩党を結成しました。結党時はかなり保守的な政策が多く、「国体護持」「統制経済維持」といった主張もありました。

 1946年1月に公職追放令が出され、274人のメンバーのうち町田党首を含む260人が追放され、残るメンバーは14人のみとなりました。1946年4月選挙でなんとか新人を擁立しまくり94議席を獲得したものの、日本自由党には負けてしまったわけです。

 そこで日本進歩党は、首相である幣原喜重郎を総裁に迎え、一時は幣原内閣の存続まで企みました。しかし総選挙で日本自由党が勝ったのにも関わらず政権が変わらないなんてことはなく、日本自由党の第一次吉田茂内閣に協力し、連立与党という形を取りました。

日本協同党

 新たな勢力となったのは日本協同党です。いわゆる保守と革新の間を行く、中道政党です。

 しかしこちらも1946年1月の公職追放の対象となり打撃を受けます。30名の幹部のうち、28名が追放の対象となってしまったのです。1946年4月の総選挙では14議席の獲得にとどまってしまいました。

戦後いきなりの”政権交代”

民主党の結成

 1947年には日本進歩党から民主党が結成されます。さすがに「最右派」のレッテルを貼られた状態では選挙に勝てないという思惑があったのかもしれません。吉田茂に反発した日本自由党の芦田均らも合流しました。しかし、日本進歩党出身の幣原喜重郎系と日本自由党出身の芦田均系では元々対立がありました。

国民協同党

 一方で、日本協同党も紆余曲折を経て、国民協同党となります。有名な人物としてはのちの首相である三木武夫がいます。

 この時点で、日本自由党・民主党(旧:日本進歩党)・国民協同党(旧:日本協同党)・日本社会党・日本共産党が主な政党として存在しています。一旦、ここで整理がついたでしょうか。

政権交代

 1947年に戦後2回目の衆議院議員総選挙が行われました。まずはその結果からお見せしましょう。

1947年4月総選挙(定数466名)

日本社会党 143議席
日本自由党 131議席
民主党 124議席
国民協同党 31議席
日本農民党 5議席
日本共産党 4議席

 さあ、もうお分かりでしょう。ついに日本社会党が第1党になったのです。これにより、社会党政権が誕生します。しかし、社会党一党で単独過半数の議席を取っていないため、連立内閣となりました。そこで参加したのが、第3党の民主党と伸び悩んだ国民協同党です。

 片山哲内閣は日本最初の社会党内閣です。詳しい中身は置いておいて、炭鉱国家管理問題により閣内対立が起こってしまいます。民主党の幣原喜重郎派の造反などを招いてしまい、1年もたずに退陣してしまいました。

 次に内閣総理大臣に就任したのは、民主党の芦田均です。引き続き、民主党・日本社会党・国民協同党の3党連立内閣でした。しかし、民主党は先ほどの選挙で第3党でした。すると第2党の日本自由党からは大きな批判を浴びます。

民主自由党の成立

 芦田内閣の時代、日本自由党が生まれ変わりました。民主党の中で社会党との連立に反発した議員が日本自由党と合流し、新たに民主自由党が結成しました。名前を考えれば分かりやすいですね。「民主」党と日本「自由」党なので、合わせて民主自由党です。なんか今の自民党の逆転版みたいな名前ですが笑

吉田茂の時代

吉田茂、復活(第2次吉田内閣)

 芦田内閣は昭和電工疑獄事件という政治スキャンダルで退陣しました。すると、民主自由党が再び政権をとります。第2次吉田内閣の成立です。この時は民主自由党の単独内閣です。

 ここでもう1回整理しますよ。

(旧立憲政友会) 日本自由党→民主自由党
(旧立憲民政党) 日本進歩党→民主党
(中道系) 日本協同党→国民協同党

 3つの政党が1回ずつ名前が変わったと覚えましょう。

第3次吉田内閣

 1949年1月に衆議院議員総選挙が行われました。

1949年1月総選挙(定数466名)

民主自由党 264議席
民主党 69議席
日本社会党 48議席
日本共産党 35議席
国民協同党 14議席

 結果は民主自由党の圧勝で、単独過半数を占めることに成功します。日本社会党、民主党、国民協同党の3党連立内閣に嫌気がさした国民が多かったことで、3党とも議席を大きく減らしています。これを機に第3次吉田茂内閣が成立しました。

政党の再編

 1949年1月の選挙でショックが大きかったのは、民主党と国民協同党でした。民主自由党と拮抗していたにも関わらず、69議席しか取れなかった民主党、議席を半減させた国民協同党は今後について真剣に考えます。

 民主党では、民主自由党に協力しようとする連立派と協力せず野党の道を進もうとする野党派で対立が起こります。1950年2月には連立派が民主自由党に合流して、自由党を結成しました。

 一方の国民協同党は民主党の野党派と合流を決め、国民民主党が成立しました。これで自民党に参加する3政党が2政党にまでまとまりました。

 さらに1952年には国民民主党が他の小政党を吸収する形で、新たに改進党となりました。総裁は重光葵、幹事長は三木武夫です。

日本自由党→民主自由党→自由党
日本進歩党→民主党→国民民主党→改進党
日本協同党→国民協同党    ↗︎ 

 さらにさらに、自由党にとっても厄介な事件が起こります。1952年に鳩山一郎の公職追放が解除され、帰ってきたのです。そもそも第1次吉田内閣は鳩山一郎が公職追放されて吉田を指名しなければ成立しなかったものです。鳩山一郎が戻ってきた以上、吉田茂は退陣すべきという声が上がってくるようになります。このような状況で自由党の中に反吉田の鳩山派が形成されるようになります。

第4次・第5次吉田茂内閣

 そのような中で吉田茂が選んだのは衆議院の解散でした。

1952年10月総選挙(定数466名)

自由党 240議席
改進党 85議席
社会党右派 57議席
社会党左派 54議席 

 結果は自由党が単独過半数をなんとか死守しました。これで、第4次吉田茂内閣が成立します。ところが成立すぐに、吉田首相の「バカヤロー」発言が問題視され、内閣不信任決議案が野党から提出されてしまいます。ここに、自由党鳩山派が賛成し、不信任決議案が可決されました。総辞職か解散か…吉田茂が選んだのは解散でした。

吉田自由党 199議席
改進党 76議席
社会党左派 72議席
社会党右派 66議席
鳩山自由党 35議席

 このような結果となり、吉田自由党の圧勝ではあるものの、単独過半数の議席獲得には失敗しました。そこで改進党に閣外協力をお願いする形で、第5次吉田茂内閣を成立させます。

 鳩山一郎を含め鳩山自由党の多くは吉田自由党に復党した一方で、河野一郎らは日本(にっぽん)自由党を結党し、反吉田派となります。そして、日本自由党・改進党・自由党鳩山派の3党が反吉田勢力を結集する形で作ったのが日本民主党です。もはや訳がわからないと思いますが、これで吉田茂率いる自由党と鳩山一郎率いる日本民主党の2政党にまとまりました。

55年体制の成立

鳩山一郎内閣

 吉田茂首相は1954年の造船疑獄事件で退陣となります。新たな自由党総裁は緒方竹虎でした。一方で首相になったのは、日本民主党の鳩山一郎です。総選挙を経ずに成立した少数与党内閣でした。鳩山内閣は憲法改正を目標とするようになります。

 1955年2月に衆議院を解散し、総選挙が行われました。主な結果は以下の通りです。

日本民主党 185議席
日本自由党 112議席
社会党左派 89議席
社会党右派 67議席

 批判を浴びたこともあり、吉田茂の日本自由党が議席を大きく減らし、鳩山一郎率いる日本民主党が第1党となります。一方で単独過半数の議席獲得は失敗しました。

保守合同

 1955年10月、日本社会党の右派と左派が統一されました。これで、衆議院では一大勢力となります。これに刺激を受け、1955年11月には日本民主党と自由党がついに合流しました。ここで成立したのが、自由民主党です。以後、自由民主党と日本社会党の二大政党を中心とした政治が始まります。これを俗に「55年体制」と呼びます。この自由民主党が、現在まで続いており、歴代最多の内閣総理大臣を輩出しているのです。

 鳩山内閣は日本民主党の内閣として成立しましたが、一旦内閣総辞職をし、首班指名選挙を受け直して、再度、自由民主党として内閣を成立させました。

 合流しても最初は不安定なところもあり、「10年持てば良い」という声すら上がっていたと言われていますが、結果として一部の分裂は起こりつつも、根幹として自由民主党は今まで政界の主流として存在し続けているわけです。

55年体制の自民党政権

 この記事では「政党の歴史」にフォーカスを当てているので、政策等にはあまり触れていません。そのため、自由民主党政権で落ち着いている間の話は手短にしていきます。

 鳩山一郎内閣の後、石橋湛山・岸信介・池田勇人・佐藤栄作・田中角栄が相次いで内閣総理大臣を務めました。時代は一気に1976年まで進みます。

 田中角栄が1974年12月に金脈問題で総理大臣を辞任しました。次に総理大臣となったのは、三木武夫です。あの国民協同党や改進党に関わってきた三木武夫です。「クリーン三木」をうたって、首相に就任したのです。

 ところが、1976年にロッキード事件によって、田中角栄前首相が逮捕されるという衝撃の事件が起こりました。そのような中で河野洋平率いる議員たちが自由民主党を離れ、新自由クラブを結成しました。

 1976年に三木武夫首相のもとで衆議院議員総選挙が行われました。結果は自由民主党が249議席で過半数を割ってしまいます。この責任をとって三木武夫は辞任、次の総理には福田赳夫が就任します。

 1978年の総裁選には福田赳夫が立候補する一方で、大平正芳も立候補し、大平正芳が内閣総理大臣に就任します。1979年の選挙では自民党が単独過半数を獲得できず、大平首相の責任論が浮上します。自民党内の非主流派が首班指名選挙で福田赳夫を指名しようとするのです。主流派と非主流派の対決の途中、大平首相に近い浜田幸一(通称:ハマコー)が「かわいい子供達の時代のために自民党があるっちゅうことを忘れるな! お前らの為にだけ自民党があるんじゃないぞ!」という名言を残しています。結果、大平首相は僅差で首相に選出されました。

 1980年6月には初めて衆参同日選挙が行われました。きっかけは内閣不信任決議案が与党内の一部造反によって可決されてしまったためです。主流派と反主流派が対立しながらの同時選挙でした。しかし、選挙期間中に大平正芳首相が急死してしまいます。これにより、党内は一気に融和・弔い選挙モードとなり、自民党は284議席を獲得して久しぶりに単独過半数を占めることに成功しました。

 選挙後に総裁を選んだ結果、鈴木善幸が首相に就任しました。1970年代までは革新自治体も出現し、自民党が苦戦することもありましたが、1980年代になると自民党は比較的安定します。

 1983年に田中角栄に有罪判決がくだりました。時の首相は中曽根康弘です。1983年に衆議院を解散し総選挙に臨みました。しかし結果は250議席と、単独過半数の維持に失敗しました。どうにか保守系議員を追加公認し、新自由クラブと連立を組む形で第2次中曽根内閣を成立させます。

 さらに1986年には中曽根首相のもとで衆参同日選挙が行われ、自民党は史上最多の300議席を獲得します。このタイミングで新自由クラブは解党し、一部をのぞいて自由民主党に復帰しました。

 その後、竹下登・宇野宗佑・海部俊樹・宮沢喜一が首相を務めました。宇野宗佑は「日本で唯一、女性スキャンダルで退陣した首相」です。海部俊樹の時代に幹事長を務めたのが小沢一郎です。

55年体制の崩壊、野党に転落

相次ぐ新党

 1993年、ついに55年体制が崩壊を迎えます。宮沢喜一内閣への、佐川急便事件に対する批判が相次ぎ、内閣不信任案が提出され、自民党からの離党が相次いだことで、可決されてしまいました。

 自由民主党からの離党者の多くは、武村正義率いる新党さきがけ、羽田孜率いる新生党に参加しました。これで自民党は再び状況が悪化します。

 一方、それとは別に元熊本県知事の細川護煕は日本新党を結成します。日本新党は、茂木敏充・枝野幸男・野田佳彦・河村たかし・前原誠司・小池百合子といった現在の政界で影響力の大きな政治家をたくさん輩出しています。

自民党が結党以来の大惨敗

 内閣不信任決議案を可決された宮沢内閣は衆議院を解散し、総選挙を行います。しかし、総選挙の結果は以下の通りとなりまいた。

自由民主党 223議席
日本社会党 70議席
新生党 55議席
公明党 51議席
日本新党 35議席
日本共産党 15議席
民社党 15議席
新党さきがけ 13議席
社会民主連合 4議席

 ぱっと見では自民党の勝ちのように見えます。しかし、お気づきですか。自民党が再び過半数を割ってしまったのです。そこで自民党と共産党以外の7政党+1会派の8勢力が政権を樹立します。それが細川護熙内閣です。非自民・非共産の7政党(日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合)+1会派(民主改革連合)の連立内閣が誕生したのです。この内閣を作り上げた功労者が小沢一郎です。細川護煕が自民党との連立を画策しましたが、小沢一郎が細川護煕に首相就任を打診したことで、一気に非自民・非共産の内閣成立に近づいたと言えるでしょう。

 これで自民党は初めて野党に転落します。非自民の細川政権は政治改革に取り組み、小選挙区比例代表並立制・政党助成金という制度が作られました。この政治改革を行なった原因は、政治不信にあります。自民党が批判を浴びて過半数を割ってしまった原因も、政治資金パーティーの献金者公表基準20万円もこの時定められました。これが結果として、2023年に大問題となるわけです。自民党は野党としてこの改革に協力・意見をしていきました。当時の自民党総裁は、河野洋平です。河野太郎のお父さんですね! 宮沢喜一が1993年総選挙惨敗の責任をとって辞任した後、渡辺美智雄との総裁選に勝ったのが河野洋平でした。

細川内閣の後を巡って…

 しかし、細川内閣が短命に終わり、次の内閣を誰にするか問題となります。小沢一郎は、自民党の渡辺美智雄を自民党から引き抜いた上で首相に任命しようと動きます。これに伴い、自民党から新たな離党が起きます。渡辺側近の集まりが柿澤弘治率いた自由党です。そしてここに加わったのが、今回の総裁選で石破茂に敗れた高市早苗(当時は無所属)でした。さらに、会派の改革の会、政党の新党みらいも自民党を離党した議員によって作られました。改革の会には、石破茂も参加しています。

 もう訳がわからないですね笑。自民党、どんだけ分裂してるんだ!っていう話です。一旦整理しましょう。

<宮沢内閣時代(1993年)>
・新党さきがけ(武村正義)
・新生党(羽田孜、小沢一郎)

<細川内閣時代(1994年)>
・自由党(柿澤弘治) ※高市早苗参加
・新党みらい(鹿野道彦)
・改革の会(会派) ※石破茂参加

 この当時、驚くほどの政党数がありました。旧自民党系の政党だけで4つ(改革の会は会派扱い)もありましたからね!

 さて、話を戻しましょう。細川護熙内閣を継ぐ内閣はどうなったのかですね。当初の渡辺美智雄を首相に擁立する作戦は失敗に終わります。渡辺美智雄自身が自民党離党を決断しなかったのです。結論として、非自民・非共産の連立8勢力は、新生党の羽田孜を首相に推しました。そして、自由党・新党みらい・改革の会の3勢力もそれに乗っかります。

 羽田孜内閣は新生党、公明党、日本新党、民社党、自由党、改革の会、民主改革連合を与党とし、新党みらい、新党さきがけ、社会民主連合が閣外協力という形をとりました。日本社会党は当初は与党参加する想定でしたが、社会党以外で団結する動きが見られたことから、日本社会党は離脱しています。そのため少数与党内閣で安定せず、わずか64日で退陣してしまいます。

自民党が再び与党へ

衝撃の「自社さ」連立内閣

 さて、羽田孜の次の内閣総理大臣を誰にするか、まだまだ政界は揺れます。河野洋平率いる自民党はここで奇策を発動します。55年体制で長らく対立してきた日本社会党との提携を決めたのです。日本社会党の村山富市を首相にすることで、なんとか与党への復帰を画策します。しかしこれに反発した海部俊樹元首相らは、自民党を離れてしまいます。最終的には、高志会という会派になります。

 これに目をつけたのが、非自民・非共産連立政権の小沢一郎です。自民党内に日本社会党との連立に反対する勢力を味方につけ、海部俊樹をもう一度、首相に担ごうとしたのです。しかし、日本社会党だけではなく、連立政権と距離をとっていた新党さきがけも村山富市に乗っかります。その結果、村山富市が勝利し、自由民主党・日本社会党・新党さきがけの3党連立内閣が成立しました。

新たなライバルの出現

 村山富市内閣は、1994年6月に成立し、1996年1月まで続きました。その最中で、再び巨大な野党勢力が誕生します。

 まず、1994年7月には自由改革連合という政党連合が結成されました。海部俊樹率いる高志会、以前に自民党を離れた改革の会や新党みらい、柿澤弘治の自由党が参加しました。これで直近で自民党を抜け出した勢力が、新党さきがけと新生党を除いて1つにまとまります。

 さらに、小沢一郎が動きます。非自民・非共産勢力が自ら作った小選挙区比例代表並立制に対応するため、1つの巨大政党になる必要性を感じていました。そこで作られたのが1994年の新進党です。羽田孜が率いる新生党、細川護煕が率いる日本新党、海部俊樹が率いる自由改革連合、公明新党(公明党の一部)、民社党が参加しました。これでいよいよ非自民野党がまとまってきました。新進党の初代党首は海部俊樹、翌年には2代党首に小沢一郎が就任します。

新進党と激突

 村山富市首相が突然辞任し、次の首相になったのは自民党の橋本龍太郎です。ついに自民党が首相ポストに復帰しました。しかし、自由民主党・日本社会党・新党さきがけの連携は続きます。

 1996年10月に衆議院議員総選挙が行われました。1993年に自民党が大敗して以来の選挙です。この選挙の直前に新党さきがけにいた鳩山由紀夫・菅直人らが民主党を作りました。結果は以下の通りです。

自由民主党 239議席
新進党 156議席
民主党 52議席
日本共産党 26議席
社会民主党 15議席
新党さきがけ 2議席
民主改革連合 1議席

 自民党は議席を増やすことには成功しますが、過半数には届きません。一方で新進党も選挙前より議席を減らしてしまいました。社会民主党や新党さきがけは、メンバーが民主党などに抜けてしまったこともあり、議席を大きく減らしてしまいました。

 これで誕生した第2次橋本龍太郎内閣は、社会民主党・新党さきがけが入閣せずに閣外協力という形に変更となりました。1998年5月には、閣外協力すらも取りやめます。自民党は、選挙を経ないまま無所属議員の復党によって、単独過半数の確保に成功してしまったのです。

新進党の分裂

 一方の小沢一郎率いる新進党はもう大変でした。1998年に分裂してしまいます。1996年に羽田孜率いる太陽党、1997年に細川護煕率いるフロムファイブが新進党を離脱していました。そんな中で、鹿野道彦率いる国民の声、小沢一郎率いる自由党、それ以外にも改革クラブ・新党平和・新党友愛・黎明クラブに分裂します。のちに、太陽党・フロムファイブ・国民の声は合流して羽田孜をトップとした民政党になります。

新進党の分裂まとめ
・太陽党→民政党へ
・フロムファイブ→民政党へ
・国民の声→民政党へ
・自由党→独自の道へ
・改革クラブ→2000年に解党
・新党平和→公明党へ
・新党友愛→民主党へ
・黎明クラブ→公明党へ

 なお民政党はすぐに民主党に合流するため、独自の路線を貫き影響力を保持したのは小沢一郎率いる自由党でした。これが次の自民党政治に絡んできます。

再び連立政権へ

小渕恵三内閣

 1998年に小渕恵三内閣が成立しました。自由民主党の単独による最後の政権です。

 1999年に、政権の安定のために小沢一郎の自由党と連立を組むことにしました。自自連立政権の誕生です。その年のうちに公明党も巻き込んだ、自自公連立政権となります。

 2000年4月には小沢一郎率いる自由党が連立からの離脱を決めました。それに対して、連立継続を望む自由党の人たちによって保守党が作られました。ここには今回選挙で引退した二階俊博、現東京都知事の小池百合子、元首相の海部俊樹などがいました。以後は、自公保連立政権となります。

 ところがすぐに、小渕恵三が体調不良で総辞職しました。次の首相については悩んだ挙句、森喜朗が選ばれます。その際、急遽決まったことであり、「密室人事」という批判も飛び交いました。

森喜朗内閣

 森喜朗内閣は、引き続き自由民主党・公明党・保守党の連立政権です。失言が多く支持率を落としていきます。「日本は神の国」とか普通に言っちゃったんですね。内閣が4月に発足し、6月に解散総選挙が行われると、自由民主党は271議席から233議席まで減らしてしまいます。これで単独過半数を割ってしまいました。しかし、自民・公明・保守の3党では過半数を確保し、政権の継続は決まりました。

 大変だったのはこの後です。10月に加藤の乱という森内閣の倒閣運動が起きてしまいました。当時の背景から説明すると、YKKと呼ばれる3人が次期首相候補と目されていました。山崎拓、加藤紘一、小泉進次郎の3名です。3人ともこの記事では初めて言及しましたね。森内閣の支持率が下がっていることを背景に、山崎拓や加藤紘一が野党の内閣不信任決議案に賛成し、倒閣の動きを見せたという事件です。結果、YKKの1人であった小泉純一郎らが徹底的な切り崩し工作を行い、内閣不信任案は否決に持ち込まれました。この過程で山崎拓や加藤紘一は政治的に大きな打撃を受けてしまいました。ちなみにこの加藤の乱に参加したメンバーの中には、菅義偉・岸田文雄2名の元首相もいました。

 森内閣は不信任決議案の否決に持ち込むことには成功したものの、それでも危機的な支持率であったことに間違いはありません。1月にえひめ丸事故が起きた際にゴルフプレーを続けたとマスコミで報じられると世論の非難が殺到し、支持率は1ケタまで落ち込んだというデータもあります。2001年4月に退陣してしまいました。

自公連立政権の安定へ

小泉純一郎内閣

 次に首相に就任したのは小泉純一郎です。自民・公明・保守の3党連立内閣がまだ続いています。ただし保守党は2002年に保守新党として再結成しています。森内閣の不人気の反動もあり、支持率は80%の好スタートでした。2001年4月に就任しましたが、2002年には支持率が一時40%程度まで落ちます。その原因の1つには、鈴木宗男事件がありました。鈴木宗男衆議院議員は、この問題で自民党を離党しています。しかし、時間が経って支持率はやや回復しました。2003年の解散総選挙では以下のような結果になりました。

自由民主党 237議席
民主党 177議席
公明党 34議席
日本共産党 9議席
社会民主党 6議席
保守新党 4議席

 なんか知らない間に色んな政党がいなくなってますね笑。小沢一郎率いる自由党は、民主党に吸収合併されました。その結果民主党は過去最高議席を獲得しています。新進党からの分裂勢力は以前まとめた通りです。自民から分裂した政党の中で唯一新進党に参加しなかった新党さきがけは多くのメンバーが民主党結成に参加して消滅寸前でしたが、2000年頃に消滅してしまいます。政党助成法の解党時期や所属議員がゼロになった時期など微妙に差異はありますが、大方2000年頃だと思っておいてください。

 自民党は国民人気の高い小泉首相であっても、2002年に自民党議員のスキャンダルもいくつかあり、思ったより苦戦しています。しかし自民・公明・保守の3党合わせれば過半数は死守できました。ここで壊滅的な結果だったのが保守新党です。4議席しか獲得できませんでした。どうしようもない中で、選挙後すぐに自民党に合流することになりました。

 これ以降は自公連立政権となります。これが現在まで続く政権の発足過程です。

郵政解散

 小泉純一郎の最大の目標は郵政民営化でした。2005年になって、郵政民営化の法案提出に踏み切ります。ところが自民党内では亀井静香や綿貫民輔ら大物議員が猛反対します。自民党内が郵政民営化の賛否で二分されてしまったのです。衆議院においてはわずか5票差で可決されます。しかし参議院には与野党勢力が伯仲していて、自民党内の一部が反対票を投じれば十分否決可能でした。小泉純一郎は参議院で否決された場合は、衆議院を解散すると明言し牽制します。それでも参議院では否決に持ち込まれました。これで小泉純一郎は一気に衆議院を解散します。

 衆議院選挙では、郵政民営化に反対の議員を公認せず、それどころか自民党で新たに公認した刺客まで立てて徹底的に落選に持ち込もうとします。世論に「抵抗勢力」との印象をつけさせることに成功します。これを小泉劇場と呼びます。

 結果を見てみましょう。

自由民主党 296議席
民主党 113議席
公明党 31議席
社会民主党 7議席
国民新党 4議席
新党日本 1議席
新党大地 1議席

 自由民主党は「抵抗勢力」を落選させることに成功し、大きく議席を伸ばしました。一方でライバル民主党は埋没して激減します。また、国民新党・新党日本・新党大地の3つの正体不明の新党がいます。これは解説しますね。新党大地は、鈴木宗男事件で離党した鈴木宗男が率いる北海道の地域政党です。郵政民営化には反対派でした。国民新党と新党日本は、自民党の「抵抗勢力」が作った政党です。先ほどの亀井静香や綿貫民輔は国民新党から小選挙区で当選しました。しかし、3党合わせて6議席しか獲得できませんでした。小泉劇場の圧勝です。

 郵政民営化法案はこの後無事に可決されました。

ポスト小泉の時代へ

 小泉純一郎は総裁任期の満了に伴い内閣総辞職しました。次に首相になったのは安倍晋三です。

 安倍晋三首相は郵政造反組の自民党への復党を進めました。しかし、安倍晋三首相の下で2007年に行われた参議院選挙の結果、民主党の議席数が自民党を上回ることになりました。衆議院の第1党は続けていますが、参議院の第1党を初めて譲ってしまいました。以後は「ねじれ国会」と呼ばれる状態になります。安倍晋三は持病により、直後に辞任してしまいました。

 次の首相は福田康夫です。約1年間総理大臣を務めました。退任の直前に、リーマンブラザーズの経営破綻が起こります。そうです。リーマン・ショックが始まってしまったのです。

 麻生太郎は2008年に総理総裁に就任しました。前回の衆議院議員選挙は2005年の郵政選挙です。あと1年以内の解散総選挙をしなければならない局面で麻生太郎が就任します。麻生太郎は「政局より政策」ということで、リーマンショックへの対応を優先することにします。1年間の間にズルズル内閣支持率や自民党支持率は低下していきました。それでも衆議院の任期がまもなくということで2009年に解散します。

2度目の野党転落

民主党政権の成立

 2009年に行われた解散総選挙の結果は以下の通りです。

民主党 308議席
自由民主党 119議席
公明党 21議席
日本共産党 9議席
社会民主党 7議席
みんなの党 5議席
国民新党 3議席
新党日本 1議席
新党大地 1議席

 自民党が歴史的な大敗となり、民主党が単独過半数の議席を獲得します。自民党は初めて衆議院においても第1党の座を失いました。

 民主党は、国民新党・社会民主党と連立する形で、鳩山由紀夫内閣を樹立します。その後、社会民主党は基地移設問題で連立を離脱し、民主党・国民新党の2党連立内閣として、菅直人内閣、野田佳彦内閣が続きました。郵政選挙で自民党を出た国民新党のメンバーは与党に返り咲いたわけです。

 気になるのは「みんなの党」ですね。麻生内閣に反発して自民党を離れた渡辺喜美が設立した政党です。かつて小沢一郎が首相に担ごうとした渡辺美智雄の子です。

 負けた自民党は、2009年から2012年まで野党となります。麻生太郎が総裁を辞任したことで、谷垣禎一が次期総裁となりました。しかし2012年には安倍晋三が総裁に再登板します。

 民主党政権は世論の期待に十分応えることができませんでした。東日本大震災への対応にも苦戦しました。2012年に野田佳彦内閣のもとで衆議院が解散され、再び総選挙に突入します。

自民党が与党に復帰

第2次〜第4次 安倍晋三内閣

 選挙の結果、自民党は圧勝し、再び政権に復帰します。第2次安倍晋三内閣の成立です。安倍晋三は2020年までの7年8ヶ月の歴代最長政権を担いました。

 安倍晋三の対抗馬として毎回総裁選に出馬していたのが、現首相の石破茂です。

 2020年の新型コロナウイルスが世界的に流行する中で、安倍晋三が体調の悪化を理由に首相を辞任します。

菅義偉内閣

 次に首相となったのは菅義偉官房長官です。安倍晋三の残りの任期1年分の在任期間ですが、その間に様々な行政面での成果をあげました。

岸田文雄内閣

 次が岸田文雄内閣です。2021年から2024年9月まで続きました。岸田内閣のもとで行われた解散総選挙では、議席を減らしたものの、自民党が圧勝しました。

 2022年7月の参議院選挙でも自民党は圧勝します。しかし、この時に安倍晋三銃撃事件が起こりました。安倍晋三元首相が暗殺されてしまったのです。この動機には統一教会と自民党のつながりがあったのではと言われています。これを機に自民党と統一教会のつながりを批判する声が高まってしまいました。

 2023年12月には自民党派閥の政治資金パーティーの裏金問題が発覚します。収入を記載していないこれを機に、自民党では多くの派閥が解散します。さらに3名が離党・除名となりました。そのほかにも多くの不記載議員が、党員資格停止などの処分を受けています。

石破茂内閣

 次に首相に就任したのが石破茂です。安倍晋三や菅義偉との総裁選対決で敗れてきた石破茂が、ついに首相に就任しました。そして、就任早々、衆議院を解散し総選挙が始まります。

 今回は不記載が発覚した議員の一部を党非公認にし、残りも比例重複を禁止するなど、自分自身を追い込んだ形にしての選挙戦となります。

まとめ

 今回の総選挙は統一教会問題と裏金問題が出てから初めての選挙となります。戦後の日本政治を担い続けてきた自民党は、今回単独過半数の議席を死守できるのかどうか。その点に注目ですね!

 

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