〈政経&日本史〉北方領土の歴史

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北方領土とは

 北方領土は現在、日本とロシアがお互いに領有権を主張して揉めているところですね。具体的には、択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島が含まれています。ただし北方”領土”と言っているのは、日本だけですよ。面積の合計は5000km2ほどあります。かなり大きいですよねー

北方領土支配の歴史

四島の発見

 まず先に四つの島を発見したのは日本だとされています。発見したのはあくまで”日本の政府”ですからね。元々住んでいたアイヌ民族は別ですよ! 記録上では19世紀初めには日本が四島の支配を確立していたとされています。一方のロシアは択捉島のすぐ北にある得撫島までを自国領土であるとなんとなく決まっていました。あくまで協定を結んだわけではありませんよ。

日露和親条約

 ところが1855年の日露和親条約で正式な取り決めがなされました。これによって、北方領土の四島は日本の領土であると確定しました。一方の得撫島以北の千島列島については、ロシアの領土であることが確定しました。

 日本政府が北方四島を日本固有の領土とする背景には、この条約があります。

樺太千島交換条約

 1875年には樺太千島交換条約が結ばれました。ここでは、樺太をすべてロシア領とする代わりに、千島列島(得撫島以北)が日本の領土とされました。ちなみにこの条約の日本全権は榎本武揚ですね。

ポーツマス条約

 ところがどっこい、1905年のポーツマス条約にて、再び国境線が変更されました。ここでは、樺太の南半分が日本に譲られることになったのです。まあロシアは負けたわけですから、その分の領土割譲と考えてください。結果として、この時点の日本は千島列島全部と樺太南半分を持っていました。

ソ連による対日参戦

 時代は一気に1945年に飛びます。当時のロシアはソ連でしたね。状況を整理しておくと、第二次世界大戦の終盤です。アメリカ・イギリス VS 日本で戦争をしていました。ソ連は日本と日ソ中立条約を結んでおり、敵でも味方でもないという状況が続いていました。

 1945年2月、ヤルタ会談が開かれました。参加したのは、アメリカ・イギリス・ソ連です。ここで、アメリカとイギリスはソ連の対日参戦を要求し、同時に千島列島の領有を認めることを約束しました。そして8月8日、ソ連は日ソ中立条約を破って日本に攻めてきました。こういった事態と原爆投下を受けて、日本は最終的に8月14日に降伏となりました。ところがソ連はその後も攻め続けました。そして、9月5日ころには、北方四島をおさえることに成功します。3ヶ月後に日本の行政権が停止され、いままでロシアが実効支配をおこなっています。

サンフランシスコ平和条約

 サンフランシスコ平和条約では、日本の千島列島の放棄が明記されました。ただし、「千島列島」の中に北方四島は入らないというのが日本の主張です。ただし、ロシアや英語圏では、択捉島や国後島が千島列島の一部と解釈することもあります。ここが揉めている原因ですね。

 ちなみにソ連はサンフランシスコ平和条約には調印していません。なので1951年の調印段階では、日本とソ連の国交は回復していませんからね!

日ソ共同宣言

 日本とロシアの国交が回復したのは、1956年のことです。ここで四島に関してがっつり議論されます。しかし結果は平行線のまま。やむなく、「平和条約締結後に歯舞群島・色丹島をソ連が日本に引き渡す」と取り決められました。ただし「引き渡す」と言っているので、あくまで「ロシア領」であることを前提としていますよね。日本領前提なら「返還する」になるはずですから!

その後

 1991年にソ連は崩壊しました。代わって成立したロシア連邦がこの問題を引き継ぐことになりました。

 元島民に対しては、墓参りなどのためにビザなしで渡航することが許可されることがあります。ところが、最近のウクライナ戦争に対する経済制裁に反発したロシアはこれの許可を取り下げてしまいました。さて、この後の北方領土問題はどこへ??

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