〈日本史〉歴史人物解説 道鏡

日本史

 今回は、道鏡について徹底解説していきます。

道鏡とは?

 道鏡は、奈良時代に政権を握ったお坊さんです。宗派は法相宗になります。行基や玄昉と同じところです。法相宗は結構すごい人輩出してるんですね。

 道鏡は、平将門や足利尊氏とともに日本三悪人に数えられることがあります。ここでいう”悪人”とは、”天皇に叛いた”というふうに捉えてください。具体的にどのように背いたのかは、これから見ていきましょう。

上皇への接近

 道鏡の出自については諸説ありますが、一応700年に誕生したとされています。その後法相宗の僧侶に弟子入りし、しばらくは普通のお坊さんとして生活していました。そのまま750年代まで時はすぎます。

 一方750年代に権力を握っていたのは、光明皇太后孝謙天皇の後ろ盾を得た藤原仲麻呂でした。仲麻呂は藤原氏であるという武器もあり、758年には自身の擁立で淳仁天皇を即位させるなど、さまざまな政策を行いました。ところが760年になると光明皇太后が亡くなってしまったんですね。これで仲麻呂を支えるのは孝謙上皇だけになります。その孝謙上皇ですが、徐々に他の男を寵愛するようになり、仲麻呂とは疎遠になっていきます。その男こそが、道鏡です。「その辺のお坊さんがいつ上皇と関わったん?」って思うでしょうが、実は孝謙上皇が少し具合の悪い時期があってその時期に支えてのが道鏡だったんですね。

 まあそんな感じで孝謙上皇が道鏡を重用するようになると焦りますよね。しかもね、孝謙上皇と道鏡の関係に口出しをしたことで、淳仁天皇が孝謙上皇と不仲になってしまうんですよ。この時点で「淳仁天皇+藤原仲麻呂 VS 孝謙上皇+道鏡」という対立構図ができてしまいます。

道鏡政権

 参った仲麻呂は764年、ついに挙兵します。目的はもちろん道鏡の排斥です。ところが結果として、このまま近江で敗死してしまいます。これを恵美押勝の乱と言います。この戦乱終結後、淳仁天皇は廃位され淡路に流されてしまいました。

 じゃあ次の天皇は誰になったのか、孝謙上皇が称徳天皇として重祚しました。そして765年には道鏡は太政大臣禅師に就任し、翌年には法王となりました。

 政策としては1つ覚えてれば十分かな。765年に出した加墾禁止令ですね。寺院と一般公民を除いて新規開墾を禁止しました。もちろん目的は貴族などの荘園拡大阻止なんでしょうけど、寺院に禁止しないと言うのが、いかにも寺院関係者っぽいですよね。

道鏡政権の衰退

 一気に権力を握った道鏡ですが、落ちるのも一瞬です。太政大臣禅師にもなり、法王にもなった。あと狙うべきはなんでしょうか? 天皇ですよね。もちろん天皇狙います。でも、道鏡の出自はごく一般のもの。ただ事実上の奥さんが天皇家であるだけ。こんなんで天皇にはなれません。

 そこで考えたのは、宇佐八幡の神託に頼る作戦です。宇佐八幡の神様に「道鏡こそ天皇になるべきだ〜」って言ってもらおうとします。まあ言ったテイにしてくれればいいんです。そういうテイにしてくれるために道鏡が769年に派遣したのが和気清麻呂です。ところが和気清麻呂は「いや、神様は天皇になれなんて言ってませんでしたよ〜」って報告します。道鏡としては作戦失敗です。怒った道鏡は和気清麻呂を大隅に配流します。この事件のことを宇佐八幡信託事件と言います。

 ところが770年、肝心の称徳天皇が亡くなってしまいます。前年のミスもあり、さらに後ろ盾も亡くなったことで、もう道鏡に居場所はありません。下野薬師寺に左遷となり、道鏡政権はあっさり終わってしまいました。

まとめ

 今回は道鏡についてまとめました。日本三悪人に数えられる理由は分かりましたか? 自分が天皇になろうとしたということは、天皇家に背いたことになりますからね。

 もちろん重要人物なので、全部しっかり覚えましょうね。

コメント

タイトルとURLをコピーしました