橘諸兄とは?
奈良時代に政権を握った人物として、絶対押さえて置きたい重要人物ですね! 彼は藤原四子の死後に政権を担当するようになります。時の天皇は聖武天皇ですね!
彼は、不比等の妻である県犬養三千代の子になります。しかし、父は不比等ではなく、見努王という皇族家系の子供になります。ですので、藤原氏とは比較的距離のある人物として押さえておいてください。
政権の掌握
橘諸兄はもともと身分が高かったこともあり、聖武天皇の即位や長屋王の変を通して、徐々に位階は上がっていました。藤原四子が権力を握ると公卿の仲間入りをしています。
ところが737年に天然痘の流行によって、藤原四子が全員亡くなってしまいました。また、その他にも多くの公卿が亡くなってしまったようです。そこで急遽、橘諸兄は出世をすることになり次期大臣の地位につきました。そして、翌年には右大臣となり、太政官の中心を担うことになったのです。これ以降、諸兄は遣唐使を務めて帰ってきた玄昉・吉備真備を抜擢して、聖武天皇の補佐を行うようになりました。ちなみに諸兄は、後に左大臣にもなっています。
藤原広嗣の乱
玄昉や吉備真備の登用を”おいしく”思わない人もいました。誰でしょう? そうです、権力がほしくてウズウズしている藤原さんですね。藤原広嗣という人物は、玄昉・吉備真備の追放をお願いする上表を出しましたが受け入れられませんでした。すると、広嗣は大宰府で反乱を起こしてしまいます。これは藤原広嗣の乱と呼ばれています。
藤原広嗣の乱自体は、そこまで長引かずに鎮圧されてしまいましたが、これに衝撃を受けたのは聖武天皇です。この当時の疫病の流行とも相まって、聖武天皇の不安はどんどん増していました。このような社会不安と政情不安に耐えかねた聖武天皇は、約5年の間に4度も遷都してしまいました。このあたりの詳しい話は、次回の『聖武天皇編』でお話しします。
橘諸兄政権の政策
この政権の代表的な政策は、なんといっても墾田永年私財法ですね。これまで期限付きでしか所有が認められていなかった土地ですが、ついに無期限の所有が認められるようになります。
そのほかにも、郷里制や防人の廃止などもやっています。この頃の政治のテーマは、疫病で衰退した国力の回復です。
橘諸兄政権の衰退
743年、聖武天皇が譲位し孝謙天皇が即位します。すると、孝謙天皇の母である光明皇后(不比等の娘)の信頼が厚かった藤原仲麻呂が紫微中台の長官になり、諸兄と遜色ない地位につきました。この年、吉備真備は国司に任じられ、玄昉は筑紫観世音寺に送られたことで、2人の国政への関与が終わりました。
752年に、東大寺の大仏開眼供養が行われ、ここに諸兄も参加はしていましたが、754年の鑑真を拝礼する際には諸兄は参加せずほとんど隠居に近かったと考えられています。
さらに讒言を受けたこともあり、756年には政界を引退してしまいました。同年に聖武上皇は崩御しています。翌年に、諸兄は74歳でなくなりました。当時としては、かなり長生きですね。ちなみに彼の息子の橘奈良麻呂については、同年にクーデタを企図するも捕らわれて獄死しています。
まとめ
以上が橘諸兄の解説です。次回は、聖武天皇の目線からこの時代を見たいと思います。
コメント