〈日本史〉鎌倉幕府の組織体制を徹底解説!

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 今回は鎌倉幕府の組織体制について詳しく解説していきます。

中央(鎌倉)

初期に設置

将軍

 将軍は言うまでもなく、鎌倉幕府のトップですね。正式には征夷大将軍という役職です。初代将軍が源頼朝。その後は源氏が3代続きますが、そこで源氏は断絶してしまいます。

 以降の将軍には、藤原氏(厳密には九条家)が継ぎました。ただし、この頃の将軍は”ほぼお飾り”です。実権を握るのは、執権の北条氏ですよ。ですから、子供のうちに将軍になって、成長してくると交代させられるというのが現実でした。

 6代〜9代将軍については、皇族から招かれました。しかしこちらもお飾りです。子供のことに将軍となり、遅くとも30歳頃には京都に送還させられていましたね。

執権

 執権については大丈夫でしょうかね。鎌倉幕府特有のものになります。1203年の比企能員の乱の後に北条時政が政所別当を兼ねる形で執権となりました。これが執権の始まりです。その後北条義時が2代目執権となり、1213年以降は侍所別当を兼ねるようになります。これで、政治・軍事の双方を執権が左右できるようになり、将軍の補佐役という名目で実権を握ることができました

 執権については北条氏が継いでいくことになります。メインは得宗(北条氏本家)ですが、得宗家以外の北条氏からも執権は多数輩出されています。

侍所

 侍所は1180年に設置されました。実は数ある鎌倉幕府の役職の中で最も早く設立されたのが侍所になります。トップは別当と呼ばれ、初代別当は和田義盛です。ただし、彼の次は北条義時で、以後は執権が別当になりますけどね。

 侍所は、御家人の統制と軍事・警察になります。御家人の統制があったため、平氏追討の際に設置されたと考えてください。だって、平氏を倒すのに御家人の協力は必要でしょ。

政所(旧・公文所)

 1184年に公文所が設置されました。こちらのトップも別当と言いますが、初代別当は大江広元です。彼は京下り官人ですね。要は京都出身の一族ってことです。

 公文所の役割は、財政や政務一般でした。まあ鎌倉時代版の”内閣”ですよね。軍事権はありませんが。ただし、この公文所については1191年に政所に改称されました。現在では政所の方がよく聞くと思いますが、設立当初は公文所であったことは必ず覚えておいてください。

問注所

 また、政所と同時期に設置されたのが問注所です。こちらは”裁判所”ですね。主に訴訟や裁判を担当していました。トップは執事と呼ばれ、初代執事は三善康信です。

承久の乱以後に設置

連署

 ここからは承久の乱以後に設置された役職を見ていきます。まずは連署です。これは北条泰時が設置しました。初代連署は北条時房です。

 役割としては執権の補佐です。執権政治の安定のためには、やはり補佐役が欠かせないですよね。ちなみに、公文書に執権と連名で署名したことから、この名前で呼ばれていました。

評定衆

 北条泰時が設置したものはもう一つあります。それが評定衆です。これは、鎌倉幕府の重要な決定について合議するために設けられました。

 執権や有力御家人、大江・三善氏などが参加していました。

引付衆

 北条時頼が設置した引付衆というものもあります。こちらは1249年に設置されています。承久の乱からはだいぶ経っていますね。

 役割としては所領関係の裁判になります。「あれ、裁判って問注所じゃないの?」って思った人、その指摘は素晴らしいです。なんで新たに引付衆が設置されたかというと、この頃になると所領に関する裁判が増えてきたので、問注所では対応できなくなっていたからだそうです。

地方

初期に設置

守護

 鎌倉幕府といえば、守護・地頭ですよね。まずは守護についてお話ししておきましょう。これは国ごとに設置されました。しゅごい(凄い)でしょ! 1185年に源義経追討を口実として、後白河法皇に許可を得た上で設置しました。

 仕事としては大犯三箇条と呼ばれるものになります。大番催促・謀叛人の逮捕・殺害人の逮捕ですね。これは絶対に知らなければならない知識です。

地頭

 国ごとに設置された守護に対して、地頭は荘園・公領ごとに設置されました。任務は土地の管理と兵粮米の徴収になります。

 また、鎌倉時代の後半になると、地頭が領主の代わりに年貢を集めるという地頭請も一部で行われるようになりました。

京都守護

 京都守護は、1185年に設置されました。こちらは京都の御家人の統率や京都の警備・裁判を担当していました。朝廷と交渉を行うこともありました。初代の京都守護は北条時政です。ただし、承久の乱後には六波羅探題に代わります。

鎮西奉行

 京都守護とほぼ同時期に設置されたのが鎮西奉行です。こちらは源義経追討の際に、九州の御家人を統率するために設置されました。ただし元寇の後には、鎮西探題が設置されたため役割は大きく低下しました。

奥州総奉行

 奥州総奉行は奥州藤原氏を滅ぼした後、奥州の御家人を統率するために設置されました。さすがにね鎌倉から完全に奥州を仕切るのは無理だもんね。その取り次ぎ役として設置されたと考えてください。

承久の乱後に設置

六波羅探題

 承久の乱によって朝廷が暴れる可能性があるということを幕府は学びました。そこで、当時の執権であった北条義時は京都守護に代わって六波羅探題をすぐに設置しました。京都守護のような洛中の警備や京都の御家人の統率という役割も継続しましたが、それに加えて朝廷の監視を行うようになり、独自の評定衆や引付を持つようになりました。

 初代の六波羅探題は北条泰時北条時房です。のちに執権や連署になる2人ですね。いかにこの組織が重要であったかということがよくわかると思います。

元寇後に設置

鎮西探題

 蒙古襲来が起こった後の1293年に設置されたのが鎮西探題です。元がもう一度攻めてくるかもしれない、そんな可能性に備えて設置されました。

 鎮西奉行の仕事をかなり吸い取った他、九州の警備で鎌倉まで行くことのできない御家人の裁判を担当しました。九州で警備を頑張っている御家人にも、ちゃんと配慮する幕府でした。

まとめ

 今回は、鎌倉幕府の組織体制について解説しました。全て重要です。必ず覚えておきましょう。お手持ちの図説で組織図は見ておくように!

 

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