〈政治〉政党解説2025 社会民主党

2025参議院選挙特集

 参議院選挙間近ということで、政党の歴史を解説する企画をやっています。今回は、社会民主党です。

社会民主党とは

 社会民主党は、かつての野党第一党ですが、現在は国会議員3人の少数政党です。よく「社民党」と略されますね。代表は福島瑞穂です。

 今回は戦前の社会主義の歴史から全面解説していきます! 

明治時代の社会主義運動

職工義友会・労働組合期成会

 明治期には社会運動が始まってきました。全ての原点は、高野房太郎が1897年に東京で結成した職工義友会です。

 これがすぐに労働組合期成会になります。中心となったのは、高野房太郎・片山潜です。『労働世界』という日本初の労働組合紙が発刊されました。

社会主義研究会

 1898年にはさらに社会主義研究会が発足します。中心となったのは、安部磯雄・幸徳秋水・片山潜です。この段階では、あくまで社会主義を研究する「研究会」にすぎません。

社会主義協会

 1900年には社会主義研究会が改組され、社会主義協会になります。本格的に社会主義を目指すようになったのです。メンバーは、安部磯雄・河上清・片山潜・堺利彦・幸徳秋水・木下尚江・西川光二郎でした。ところが1900年には治安警察法が制定され、この弾圧を受けるようにもなりました。

社会民主党

 さらに1901年には社会民主党が結成されました。社会主義を目指す初めての政党です。メンバーは、安部磯雄・河上清・片山潜・幸徳秋水・木下尚江・西川光二郎です。社会主義協会の主要メンバーのほとんどが参加しました。ところが、治安警察法により、即座に結社禁止となりました。そのため、社会主義協会が引き続き活動の中心となります。

平民社

 さらに、幸徳秋水と堺利彦が1903年に平民社を結成しました。日露戦争への反戦論や社会主義の紹介を行なっていくようになります。機関紙は『平民新聞』ですね。

 社会主義協会と平民社が、社会主義運動の中心となっていきました。ところが、社会主義協会は1904年に結社禁止となりました。

日本社会党

 1906年には、再び国政政党が成立します。それが日本社会党です。中心となったのは、堺利彦・幸徳秋水・片山潜・西川光二郎でした。機関誌は平民社と同様の『平民新聞』です。

 ところがここは党内で対立が起きます。「直接行動派」と「議会政策派」で激しく対立したのです。直接行動を訴える「直接行動派」は幸徳秋水、議会中心の運動を訴える「議会政策派」は片山潜が中心となります。

 1907年にはこういった路線対立を危険視した政府によって、治安警察法で結社禁止を命じられてしまいました。

赤旗事件・大逆事件

 1908年には赤旗事件が起こります。無政府主義者のデモ行進に警察が介入して乱闘騒ぎとなってしまったのです。ここで、大杉栄・堺利彦・山川均らが逮捕されてしまいました。これを機に、西園寺内閣は倒れてしまいました。

 1910年にはさらなる追い討ちがありました。それが大逆事件です。明治天皇暗殺計画を理由に、幸徳秋水・管野スガら社会主義者26名が起訴され、12名が死刑となりました。これ以降は社会主義「冬の時代」となります。

大正時代

 大正期は、普通選挙運動・婦人参政権を求める大正デモクラシー運動が盛んでした。平塚らいてう・市川房枝らの婦人参政権獲得運動、吉野作造の黎明会など、挙げるべきものは多数ありますが、ここでは社会主義関連のものを紹介します。

日本社会主義同盟

 1920年に、日本社会主義同盟が結成されます。冬の時代が始まって10年、再始動ですね。中心メンバーは、山川均・堺利彦・大杉栄です。ここでは大同団結のような形で結成されました。「無政府主義」を唱える大杉栄、「共産主義」を唱える山川均・堺利彦が一緒になったのです。ところがこちらは、翌年に結社禁止となります。

赤瀾会

 1921年には、伊藤野枝・山川菊江らによって赤瀾会が結成されました。これは女性の社会主義団体ですね。

日本共産党

 さらに1922年には、日本共産党が非合法で結成されました。日本社会主義同盟の共産主義者が中心となってできました。個人名を挙げると、堺利彦・山川均ですね。この日本共産党が、現在まで続いている、あの共産党です。これ以降の歴史は、共産党の記事で紹介しますね!

昭和戦前

 さあ時代はいよいよ昭和戦前です。ここでは、無産政党が相次いで成立しました。順番に見て行きましょう!

農民労働党

 1925年に、農民労働党が結成されました。杉山元治郎の日本農民組合を中心とし、浅沼稲次郎が書記長となりました。しかし結成1時間後に結社禁止となります。

労働農民党

 1926年には、リベンジとして労働農民党が結成されます。日本農民組合の杉山元治郎が委員長となりました。

 ところが、中での対立もあり、右派・中間派・左派に分裂します。

労働農民党(左派):大山郁夫
日本労農党(中間派):三輪寿壮・麻生久
社会民衆党(右派):安部磯雄・片山哲

 そして、1928年には初の納税額に関係なく選挙権を与えられた第1回普通選挙を迎え、この結果を見てみましょう。

1928年2月総選挙(定数466議席)

立憲政友会 218議席
立憲民政党 216議席
実業同志会 4議席
社会民衆党 4議席
革新党 3議席
労働農民党 2議席
日本労農党 1議席
九州民憲党 1議席
日本農民党 0議席

 社会民衆党・労働農民党・日本労農党・九州民憲党・日本農民党の5つの無産政党から、合計8人の当選者を出しました。

社会主義政党の動き

 その後の社会主義政党はなかなか厄介な動きをたどります。社会民衆党・労働農民党・日本労農党・日本農民党の4党がありましたが、左派の労働農民党は共産党と連携していましたが、1928年4月に結社禁止となります。委員長の大山郁夫は、非合法の共産党と連携して、労働者農民党をすぐに作りましたが、こちらも結社禁止になります。1929年には懲りずに労農党を結成しましたが、こちらは結社禁止にこそならなかったものの、なかなか存在感を示せずにいました。

 一方で、労働者農民党の一部と合流した鈴木茂三郎は独自に無産大衆党を結成しました。

 中間派の日本労農党については、三輪寿壮・麻生久・浅沼稲次郎がいたものの、内部対立がかなり激しいものでした。

 右派の社会民衆党は4議席を獲得し、しばらくは独自の道を進んでいくことになります。

 さらに議席獲得は逃したものの日本農民党も無産政党として存続していました。

労働農民党→労働者農民党→労農党
     ↘︎無産大衆党
日本労農党
社会民衆党
日本農民党

 さあバラバラの無産政党がどうなっていくのか見ていきましょう。

 1928年に日本大衆党が結成され、ここに多くの無産政党が集結しました。日本労農党・日本農民党・無産大衆党・九州民憲党などの7勢力が合体したのです。この時点での無産政党は、日本大衆党(高野岩三郎)・社会民衆党(安部磯雄、片山哲)・労農党(大山郁夫)の3党にまとまってきます。しかしねぇ、ここでも毎度お馴染みの内部対立です、左右の対決が社会主義勢力内でも激しかったんですね。除名騒動などもありましたが、1930年には全国大衆党になりました。さらに労農党や社会民衆党の一部と合流する形で全国労農大衆等が設立されました。さらに社会民衆党も合流したことで、社会大衆党を結成します。これで社会主義勢力がついに一つになったのです。

社会大衆党

 社会大衆党は1932年に安部磯雄・麻生久が中心となり、結成しました。長く集合離散を繰り返した無産政党もようやくまとまったのです。

 と思いきや…、実は社会民衆党の一部は合流に参加せず、日本国家社会党を設立したのです。中心となったのは赤松克麿です。

戦時体制へ

 社会主義系の政党は基本的に反戦論を唱えることが多いです。現在の社民党も共産党も、反戦論ですよね。ただし、1930年代の後半以降は、戦争に対しても支持する姿勢を見せるようになります。このような姿勢を国家社会主義と言います。1937年の日中戦争に対しても支持を表明しました。1940年には、大政翼賛会に参加するために、社会大衆党は解党しました。

 1937年には加藤勘十・鈴木茂三郎によって左派系の日本無産党が、1940年には安部磯雄によって右派系の勤労国民党が結成され、社会大衆党に対抗しますが、いずれも結社禁止となりました。

 日本国家社会党の赤松克麿については、新体制運動に参加しており、大政翼賛会結成時の幹部でもありました。

日本社会党

社会党再結成

 太平洋戦争が終わり、1945年。日本共産党を除く戦前の社会主義勢力が大同団結し、日本社会党が結成されました。書記長は片山哲が就任しました。ただし社会主義にも色々あって、右派・中間派・左派の内部対立は、やはりいずれ起こっていきます。

 1946年4月総選挙の結果から見てみましょう。

1946年4月総選挙(定数464名)

日本自由党 140議席
日本進歩党 94議席
日本社会党 92議席
日本協同党 14議席
日本共産党 5議席

 お見事ですね、いきなり92議席を獲得します。これはかなり頑張ったのではないでしょうか。

一度目の首相輩出

 さらに躍進が続きます。1947年4月総選挙を見てみましょう!

1947年4月総選挙(定数466名)

日本社会党 143議席
日本自由党 131議席
民主党 124議席
国民協同党 31議席
日本農民党 5議席
日本共産党 4議席

 なんと、日本自由党や民主党といった、保守系の二大政党を抑えて、比較第一党に躍進しました。戦後いきなりですが、政権交代が実現します。

 ただし、定数466名のうちの過半数は確保できていません。よって、他党との連立を組むことになります。もともとは日本自由党の吉田茂首相でしたから、日本自由党は厳しいですね。よって選ばれたのは、民主党と国民協同党です。3党の連立内閣が始まります。首相についたのは、書記長の片山哲です。

 片山哲内閣は、とにかく不安定です。社会党内の右派の一部は、社会革新党を作って離党してしまいます。左派に関してはなんとか分裂はしないものの、入閣は認められず、かなりの冷や飯状態でした。最終的に、炭鉱国家管理問題により閣内対立が起こり、民主党の幣原喜重郎派の造反などを招いてしまい、1年もたずに退陣してしまいました。

 次に内閣総理大臣に就任したのは、民主党の芦田均です。引き続き、民主党・日本社会党・国民協同党の3党連立内閣でした。しかし、民主党は先ほどの選挙で第3党でした。すると第2党の日本自由党からは大きな批判を浴びます。社会党内の左派も入閣は認められず、予算案に反対したことから、除名され、労働者農民党を結成します。右からも左からも嫌われてしまう結果となりました。芦田均内閣は昭和電工疑獄事件で崩壊してしまいます。

社会党の分裂

 グダグダ内閣が続いた後、1949年に総選挙が行われました。結果はお察しですね?

1949年1月総選挙(定数466名)

民主自由党 264議席
民主党 69議席
日本社会党 48議席
日本共産党 35議席
国民協同党 14議席

 はい、ボロ負けです。143議席があったことが嘘みたいに、ボロ負けしました。委員長の片山哲もここで落選してしまいます。

 さらに1951年には、社会党内で左派と右派に完全に分裂してしまいます。きっかけは、もともと仲が悪かったことに加え、サンフランシスコ平和条約への賛否で揉めたのです。世界との戦争講和には皆賛成だったのですが、ソ連・中国といった社会主義国も含めた「全面講和」か、それらを除いた「単独講和」かで揉めます。左派は「全面講和」、右派は「単独講和」を主張しました。

 分裂以降、1952・1953・1955年衆議院議員総選挙が行われますが、基本的には左派社会党がだんだんと力を伸ばすようになります。左派のトップは鈴木茂三郎、右派のトップは河上丈太郎です。右派も何もしなかったわけでもなく、片山内閣時に分裂した社会革新党のメンバーを右派に合流させることに成功しました。社会革新党は社会民主党を経て、協同党という名称で活動していたところでした。

社会主義勢力

社会革新党→社会民主党→協同党↓(右派に合流)
日本社会党右派
日本社会党左派
労働者農民党

 4分裂した社会党は3つに収束します。そして、1955年の総選挙の結果を見てみましょう。

1955年2月総選挙(定数467名)

日本民主党 185議席
自由党 112議席
社会党左派 89議席
社会党右派 67議席
労働者農民党 4議席
日本共産党 2議席

 社会党左派が右派より優位に立っているのは、議席数を見ればわかると思います。さらに左派と右派を足せば、現在の政権与党である自由党を上回ることができたのです。となれば、やはり合流を見据えるようになりますね。

社会党再統一

 1955年10月、社会党はついに再統一されます。委員長は鈴木茂三郎、書記長は浅沼稲次郎という形で、統一されました。その後の参議院選挙でもかなり健闘します。

 さらに1957年には、左派系の労働者農民党が合流し、これで社会党系は全て統一されました。

 ちなみに1955年は、自由党と日本民主党が合流して、自由民主党が成立しました。以後は、自由民主党が与党、日本社会党が野党の二大政党制が続くようになりました。しかし、現実に日本社会党単独の政権交代は実現せず、過半数を超える候補者の擁立もあまりされなかったことから、完璧な二大政党制かどうかはやや怪しいところですね。

民主社会党の分裂

 ところがですね、社会党の統一は長くは持ちません。1960年には右派が民主社会党を作って分裂してしまいました。民主社会党の中心になったのは、西尾末広という人物です。民主社会党はのちに民社党となり、与党・野党とも異なる第三極として存在感を出していきます。

 一方、社会党の方はどうなったかですね。仲間が抜けてしまって不安定だった右派からは、中心人物であった河上丈太郎が委員長選挙への出馬を決意します。左派の浅沼稲次郎が勝ったものの、河上丈太郎はかなり僅差まで追い詰めたため、右派も安心して党に残ったと言われています。

 その後、浅沼稲次郎はすぐに刺殺されてしまい、1961年には河上丈太郎が委員長を務めるようになりました。

 ところが、それ以降は社会党の党勢が徐々に衰退していきました。財政的にはかなりピンチでした。ここで作戦を切り替え、他の野党と協力する姿勢を見せます。その結果、東京都知事や大阪府知事は推薦候補が勝利することができました。

 1970年代後半には、再び分裂が起こります。社会党の一部が社会民主連合を結成して、党を離れてしまいました。日本社会党としては、民主社会党に次ぐ、2度目の党分裂になりました。ただし社会民主連合は最盛期でも衆議院議員4人の小規模政党でした。

土井ブーム

 1986年の衆参ダブル選挙では、社会党がボロ負けに終わってしまいます。112議席から85議席に減らしてしまい、初めて2ケタ議席に終わってしまったのです。これで代表交代となり、次に代表に就いたのは日本初の女性党首である土井たか子です。自民党がスキャンダル続きで支持率が悪化していたこともあり、参議院選挙で自民党を過半数割れに追い込み、衆議院でも136議席にまで回復させました。

 ただし土井ブームも長くは続きません。再び退潮傾向が続きました。

伝説の非自民非共産連立政権

 1993年の総選挙の結果を見てみましょう。

1993年7月総選挙(定数511名)

自由民主党 223議席
日本社会党 70議席
新生党 55議席
公明党 51議席
日本新党 35議席
日本共産党 15議席
民社党 15議席
新党さきがけ 13議席
社会民主連合 4議席

 社会党は過去最低の70議席に終わってしまいます。ところが、よく見てくださいね。自民党も223議席で過去最低を更新します。与党・野党第一党ともに、惨敗の選挙だったのです。

 自民党以外の全ての野党が手を組めば、政権交代が可能な状態にまで来ました。実際に自民党以外を全て丸め込んだ男がいます。それが新生党の小沢一郎です。日本新党の細川護煕を首相に担いで、非自民・非共産の7政党(日本社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合)+1会派(民主改革連合)をまとめて非自民・非共産の連立政権を樹立しました。

 細川内閣は長くは続かず、次に成立したのは羽田孜内閣です。ところが羽田内閣樹立の際に小沢一郎が社会党から距離を置くような姿勢を見せたことから、社会党は野党に回ります。そして羽田内閣は少数与党になってしまい、わずか2ヶ月で退陣に追い込まれてしまいました。

自社さ連立政権

 次に動いたのは自民党です。政権奪還を狙っていた自民党は、非自民・非共産連立政権から距離をとっていた新党さきがけに日本社会党を加えて、社会党委員長村山富市を首相に担いだ連立政権の樹立を目論み、社会党はこれに乗ることになりました。これで村山富市内閣が誕生します。

 ただし自民党と社会党は、政治姿勢が正反対。社会党は方針転換を迫られます。日米安全保障条約や自衛隊に従来までNO姿勢だったのを、肯定姿勢に変えざるをえませんでした。これが旧来の支持者から大批判を浴びることに繋がります。

 1996年1月に村山富市が首相を降り、次は自民党の橋本龍太郎が首相となります。自社さ連立政権は継続しましたが、とにかく日本社会党への逆風が強い。事態を奪回するため、党名の変更を決意しました。お待たせしました、社会民主党の誕生です。

社会民主党

 社会民主党の成立は簡単ではありませんでした。党内からの反対論も出て、離党者も続出した一方、社会党・共産党以外の野党は新進党という大きな塊に集結しつつあったのです。

 さあなんとなくお察しかもしれませんが、1996年の総選挙の結果を見てみましょう。

自由民主党 239議席
新進党 156議席
民主党 52議席
日本共産党 26議席
社会民主党 15議席
新党さきがけ 2議席
民主改革連合 1議席

 かつての野党第一党の勢いはどこに行ったのか、まさかの15議席しか取れませんでした。路線を変えたことから、自衛隊や日米安保に反対する人たちは共産党を応援するようになり、共産党にすらかなわない議席数にまで減らしてしまいました。

 鳩山由紀夫率いる民主党への合流構想が持ち上がったものの、鳩山由紀夫が党首経験者の入党を拒否したことから、合流は取りやめになります。ただし、ここで半分の国会議員が民主党に移籍したため、社民党のメンバーはさらに半減してしまいました。

 その後、1998年には政権から離脱してしまいました。しばらくは野党になりますが、全くと言っていいほど勢いはありません。

民主党政権に参加

 ところが2009年には民主党が衆議院議員選挙で圧勝したことで、連立内閣に参加することが決まりました。党首の福島瑞穂が鳩山由紀夫内閣に入閣することになりました。政権与党に復帰したのです。片山内閣、芦田内閣、細川内閣、村山内閣、橋本内閣に次ぐ、15年ぶりの政権復帰ですかね!

 ところが普天間基地問題移設問題が起こります。鳩山内閣は普天間基地の移設を「最低でも県外」と言ったにも関わらず、結局は沖縄県の辺野古基地への移設を決め込んでしまったのです。これに社民党は反発。大臣の福島瑞穂は「沖縄裏切ることはできない」として、普天間移設の政府案への署名を拒否しました。

 鳩山首相は仕方なく福島瑞穂大臣を罷免し、これが引き金となって社民党は連立政権を離脱しました。この時期の沖縄県内の社民党支持率は大幅に上昇しました。

野党

 連立政権離脱後は、民主党政権に対して対立することも協力することもありましたが、社民党の党勢がいよいよ深刻になってきます。

 2012年の衆議院議員総選挙、2013年の参議院選挙ともに、国政政党要件ギリギリの状態が続き、福島瑞穂氏はついに党首を辞任します。

 次の党首は吉田忠智、その次は又市征治でした。しかし社民党の衰退は止まらず、得票率もどんどん減っていきます。2020年には、立憲民主党との合流構想も出てきました。そんな中で、次に党首になったのは福島瑞穂です。

 合流に関しては賛否が党内で分かれてしまい。結果としては、分党を決断しました。4人の国会議員のうち2人が党を離れて立憲民主党に合流し、社民党は国会議員2人だけの政党になってしまいました。

 その後、繰り上げ当選で国会議員が1人増えたことで、現在は衆議院議員1名、参議院議員2名の小規模政党になっています。

今回の参議院議員選挙にあたって

 今回の参議院議員選挙は、公職選挙法上の政党要件を満たすため、全国比例で2%得票率を取れるかどうかが注目されます。存続の危機を迎える社民党、果たして今回の参議院選挙で生き延びることができるのか?!

〜参議院情勢〜

現有議席:2
(改選1、非改選1)

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